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『意志と表象としての世界』四巻 まとめ その3

 ここで筆者(コギト)はいちど六十三節にもどり「固体化の原理」「永遠の正義」を説明したのち、最後六十八〜七十一節をまとめたい。ここはなかなか文学的な箇所だが、じつはニーチェやウィトゲンシュタインを読みこむためにも重要な節である。さっそくはじめよう。

「固体化の原理」の超越による「永遠の正義」の認識(六十三節)

 生きんとする意志が現象し、客体性となったのがこの世界であり、存在するものの存在の仕方は、その総体においてもあらゆる部分においても、すべて意志から発している。意志は自由であり、全能である。意志は時間を離れて自分で自分を規定し、万物のうちに現象しているが、このような意志を映し出す鏡にほかならないのが世界である。世界が含んでいるあらゆる有限性、あらゆる苦悩は、みな意志が欲するところを表現するため必要なものばかりであり、これが現にかく存在しているのは、意志がかく欲しているからにほかならない。

 すると彼の身にふりかかるすべてのことは、彼の身にいつも当然起こるべくして起こることなのである。なぜなら意志は誰の意志でもなく、彼の意志であり、意志が現に存在しているとおりに、世界もまた現に存在しているからである。

 人間の運命というものを全体的かつ一般的によく観察してみるがよい。人間の運命というのは欠乏であり、悲劇であり、不幸であり、そして死だ。そこに君臨しているのは永遠の正義である。

 永遠の正義というのは、人間的な諸制度に左右されず、偶然や錯覚に服することなく、不動かつ確実な、世界を支配している正義である。

 認識というものは意志に奉仕するために意志の中から芽生えてきて、個体に備わることになったものである。一方で、世界というのは生きんとする意志の客体性として、認識に対してはっきりした自分の姿を見せはしない。個体のまなざしの前に姿をみせるものは、物自体ではなしに、固体化の原理である時間・空間と根拠の原理のその他の諸形態のなかに現れてくる現象でしかありえないのである。

 すると個体としての自分の苦しみから免れようと試みたりすることは、ひとえに固体化の原理にとらわれ、マーヤーのヴェールに欺かれている証拠である。

 四方はてしなく、山なす波が、猛りつつ起伏している荒れ狂った海上で、一艘の小舟にひとりの船人がすわり、そのたよりない小舟に命を託している。それと同じように、苦悩の世界のまっただ中で、個体としての人間が安らかにすわっているのは、「固体化の原理」にささえられ、それに命を託しているからである(ここはニーチェが悲劇の誕生で引用した箇所である)

 個体は、事物を現象として認識するその認識の仕方にささえられ、それに命を託しているのである。このような固体化の原理にささえられた彼にとって、無限の過去と未来にわたり苦悩の充満する世界とは、一遍のお伽噺のようにしか思えまい。彼にとって現実性あるものは、ほとんど消え入りそうなこの小さなわが身一身であり、彼の現在であり、つかの間の安楽にすぎない。これを維持せんがために彼は全力を傾けているのである。

 しかしどんな人間にも、誰にも共通の打ち消し難い戦慄感がやどっているものだ。彼の意識のもっとも奥深い内側に、あの、無限の過去・未来にわたる苦悩に充満した世界というもの、ひょっとしたら、自分と本当はそれほど無関係なものではないのではないだろうか? そのようなおぼろげな予感は生きつづけているのである。

 これはなにかの偶然によって、「根拠の原理」がそのどれか一つの形態においてやむなく例外的な現れ方をするようにみえると、人間が「固体化の原理」に迷い出し、突然その心に襲いかかる戦慄感である(この箇所もニーチェが悲劇の誕生で引用している)

 例えば、原因もなしになにがしかの変化が発生したように思えるとき、死んでしまった人が生きてそこにいるように思えるとき、過去や未来の出来事がいま眼前にあるように思えたり、遠地の出来事がま近のことに思えたりするときにこうした戦慄感が襲いかかる。こうした経験でぞっとするような恐怖を人が抱くのは、人間が突然現象の形式(個体をそれ以外の世界から区分けしている認識形式)に迷い出したことに基づくが、この区分けは、現象の本性にのみ適ったことで、物自体に適ったことではない。永遠の正義は、ほかならぬこの物自体に基づいているのである。

 固体化の原理を突き破って見ている認識にとっては、幸福な人生といっても時間の中でのことであり、偶然が与えてくれた贈り物はしょせん乞食が王様になった夢を見ているのにすぎず、人は誰でも生きんとする確たる意志であり、全力をあげて生を肯定しているのであれば、世界のありとあらゆる苦悩をわが身の苦悩とみななさなくてはなるまい。根拠の原理に従う認識、固体化の原理にとらわれている者のまなざしには、永遠の正義は見えてこない。

 これを超越し、イデアを認識し、固体化の原理を突き破って見ている人、現象の諸形式など物自体にとって関係がないということを自覚している人だけが、永遠の正義を理解し、把握する人であるだろう。さらにまたこのような人だけが、同じ認識の力を借りて、徳というものの真の本質を理解することができるのである(ただし徳を実行することにかけては、このような抽象的認識はけっして必要とされるものではない)

 つまり今述べた認識に達している人は、意志こそはあらゆる現象の即自態なのであるから、他の人々にふりかかる苦しみもわが身のこうむる苦しみも、たとえ個体として異なった現象で成立しているのだとしても、たとえ遠い時間と空間によって距てられてさえいるのだとしても、それでもつねに、ただあの唯一同一の本質にのみ関わりがあるのだということを明瞭に知るにいたるであろう。かれはまた、苦しみを課する人と苦しみを耐えねばならぬ人との差異はしょせん現象にすぎず、物自体にはそういう差異は関わりがないことを見破っている。

 永遠の正義を生き生きと認識するには、人は個体性ならびにその可能性の原理をすっかり超越してしまうことが必要である。だとすれば、永遠の正義を認識することは、大多数の人間にとってはいつまでも近付き難いことであろうかと思う。

 そこで宗教の教義は、永遠の正義に関するこの認識を、概念や言葉や比喩や叙事的な表現法の許す範囲において、民衆の限られた能力でそれをつかまえることができる範囲で、つまり根拠の原理に従う認識方法へと翻訳されてのことではあるが、神話の形式で民衆の行動に対する規制としての代用品として、直接的に言い表したのであった。

 ヴェーダは人間の認識と知恵の最上のものの成果であり、その中心はウパニシャッドという形を成していて、今世紀最大の贈り物として、ついにわれわれ西欧人にも届けられるに至ったのである。

 カントの言葉でいえば、神話はすべてこの意味において、実践理性の一つの要請とよばれてしかるべきものかと思う。ここでわたしが念願に思いうかべているのは輪廻の神話のことであり云々省略111-112頁…少数の人々にしか到達できないこの哲学的な真理に対し、もっとも古い民族のこうした太古の教えほどに緊密に結びついた神話はけっしてなかったし、これからもけっしてないだろう。

 人類のこの根源的叡智が、ガラリヤで起こったいくつかの出来事によって追い払われてしまうようなことはあるまい。それどころかインド人の叡智がヨーロッパに逆流し、われわれの知識と思索とに根本的な変化を引き起こすことになるであろう。

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