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8.コーヒーの美学

 常々気になっていたことであるが、〈美味しい〉という日本語は〈美〉と〈味〉から成る。そのうち〈美〉は悟性に、〈味〉は感性に、おもに属するものである。

 スペシャリティコーヒーは、コーヒーの〈味〉を感性的に論じることであり、これからわたしが論じることはコーヒーの〈美〉についてである。

 『判断力批判』を手元に置き、わたしなりに論じよう。

 人間は、〈事物〉を感じ、考える能力を自然に授かり生まれてくる。

 人間は、自分が知覚した〈事物〉を比較し、結びつけ、検証し、関係性を把握し、ある〈事物〉についての観念を、自らの内に発生させる。

 〈事物〉の実在は〈事物そのもの〉にあるのではなく、それを知覚する人間の精神に現れる。

 しかし〈事物〉は、無ではない。わたしが察知するかぎり、これに当てはめることのできる適正な概念は〈空〉である。

 〈事物〉は、あるともないともいえない。〈事物〉は〈事物自体〉に、実在的な関係性を含んでいる。

 すなわち、ある性質を備えた〈事物〉を、わたしという精神が知覚する。

 そのとき、感性に導かれたわたしの悟性は、実在的な関係性について想像している。

 想像力とは、すでに自分が「知っている」と思っているものを作りかえていく〈力〉だ。

 この〈力〉のことを、わたしは〈直感〉と言いかえたい。

 すなわち〈美〉とは、感性と悟性の音程にある〈直感〉のことである。

 それだから〈美〉の性質を、いくら数学的に解こうとしても無理があるのだ。

 〈美〉を判断するものは精神である。しかし精神とは何か?

 ある精神にとって、ゴッホの絵は崇高であり混沌であり貧弱であり豊富である。

 〈美〉が、関係性の結果であることはすでに書いたが、〈美〉とは、〈美〉を、知覚するものの経験と認識に力におうことは疑いえない。

 日本語で「美味しいコーヒー」という言葉の意味するところは何か?

 認識力は感情、関心、習慣、注意、情念、そして判断力のことである。

 判断力を批判するのは〈理性〉の役割だ。

 〈理性〉は、自己の内に発生する多量の観念をひとつにまとめ、〈物事〉を抽象化して推論する能力である。

 しかしわたしの話しは抽象的になりすぎた。

 わたしは具体的な話にうつるために、これから先生とコーヒー・ブレイクしたい。

 わたしたちは一杯のコーヒーを飲んだ。先生は『判断力批判』のページをひらいた。

 何か或るものが美であるか否かを判別する場合には、その物を認識するために表象を悟性によって客観に関係させることをしないで、構想力(恐らく悟性と結びついている)によって表象を主観における快・不快の感情に関係させるのである。それだから趣味判断は認識判断ではない、従ってまた論理的判断ではなくて美学的判断である。なおここで美学的判断というのは、判断の規定根拠が主観的なものでしたあり得ないということである。

 ―…快適なものとは、各自がもつ趣味のことだ。私がいまコーヒを飲み美味しいと声に出すこと、それは主観的な判断だ
 ―それはそうですね。美味しいと思っているのは、先生だけなのですから
 ―それを客観的に見ると、私はただコーヒーを口にしているだけだ
 ―ええ
 ―カントは、美とは主観的なものであるという
 ―なるほど
 ―それは個人の内にある快不快をあつかう問題だ
 ―つまり美は、客観的な規則を証明することができないのですね?
 ―そういうことだ。それで何かを美的判断しようとする個人は、必ず〈無関心〉でなければならない
 ―それはどういう意味でしょうか?
 ―例えば、いまからコーヒーを飲む主体にそのコーヒーが『品評会入賞のコーヒー』だという情報が提示されたなら、そのコーヒーはもう美的なものではない
 ―なるほど…例えば『カップ・オブ・エクセレンス1位を受賞したコーヒー』あるいは『ゲイシャの高価なコーヒー』という概念が、主体に入ってはいけないというわけですね?
 ―美は、あらゆる概念に関心をもってはならない。美的判断はあくまでも〈無関心〉に一杯のコーヒーを飲まなければならないし一枚の絵を眺めなければならない
 ―なにかの関心によって、事物の良い悪いを決めてはならない…
 ―美は、スペシャルティコーヒーという概念に縛られてはならない。なぜだと思う?
 ―…それは物が、概念に従属してしまうからでしょうか?

 いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交じるならば、その美学的判断は不公平になり、決して純粋な趣味判断とは言えない―趣味の事柄に関して裁判官の役目を果すためには、我々は事物の実在にいささかたりとも心を奪われてはならない、要するにこの点に関しては、飽くまで無関心でなければならないのである。
 趣味とは、或る対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の関心にかかわりなく適意或は不適意によって判断する能力である。そしてかかる敵意の対象が即ち美と名づけられるのである。

 ―ごほん、乃木坂46の白石麻衣ちゃんの顔が左右均等であるから美しいというのは概念に縛られた美だ!
 ―先生、あの…色々とお詳しいのですね
 ―うむ。スペシャルティコーヒーという概念に縛られたコーヒーは、コーヒーとして自立していない。そしてそのようなコーヒーは自由ではない
 ―やはり自由の問題へ流れていくのですか?
 ―うむ、ウッド・ストックと同じ日にニューヨークのスタジオで収録されたマイルス・デイビスのビッチェズ・ブリューはカウンター・カルチャーのイコンとなった音楽だからかっこいいと言うのはまったく自由な判断ではない!
 ―美も、やはり自由の問題なのですね!
 ―ここでは〈合目的性〉と言っておこう
 ―スペシャルティコーヒーはコーヒー自体が目的をもっているから、自由ではないのですか?
 ―目的をもっているのはコーヒーではなく、それを飲む人間のほうにある
 ―コーヒーを飲む人間が〈合目的的〉であるか、それが論点なのですか?
 ―自分の中に目的をもっている人間はコーヒーを飲む目的を自由に規定する
 ―…目的を自分の中にもっている人間は、いかなる概念にも従属しないのですね!

 我々は美一般の判断において、判断のア・プリオリな基準を常に我々自身のうちに求める、そして美学的判断力は、何か或るものが美であるか否かという判断に関してそれ自身立法的である。
 道徳的存在としての人間については、人間はなんのために実在するのか、という問いはもはや無用である。人間の現実的存在は、それ自身のうちに最高の目的を含んでいる、そして彼は自分の力の及ぶ限り全自然をこの最高目的に従わせることができる、或いは少なくともかかる目的に反して、彼自身を自然の影響に従わせることは断じて許されないのである。もし世界における物が、いずれもその実在に関して依存的存在者であるところから、目的に従ってはたらくようは最高の原因を必要とするならば、人間こそ創造の究極目的である。人間が存在しないと、順次にいっそう高い目的に従属する目的の系列は、決して完結され得ないだろう。人間においてのみ、しかも道徳性の主体としての人間においてのみ、目的に関する無条件的な律法が見出され得る、そしてかかる立法こそ人間をして究極目的―換言すれば、全自然が目的論的にそれに従属しているような目的たらしめ得るのである。

 ―いいかな。いま目の前にあるブラジル・カルモデミナス産COE7位のロッド、その判断の妥当性は個人的な快不快に属しているのだから、このブラジル・カルモデミナス産COEロッドは品質が素晴らしいという言い方はあり得ず、正しくは、このブラジル・カルモデミナス産COEロッドは私にとっては素晴らしいという表現に限られるはずだ
 ―そのブラジル・カルモデミナス産のコーヒーがカッピング基準で89点をとったからといって、必ずしも素晴らしいコーヒーだとは限らないのですね
 ―対象を概念だけによって判断するなら、対象からは美の表象が剥奪される
 ―それだから、白石麻衣ちゃんが日本一の美人であると強調するような規則はあり得ないのですね?
 ―ケインズの美人投票理論によって、AKB総選挙はファンダメンタル的に発展した!
 ―なんか色々、分かりません!
 ―最近孫があいみょんを押しつけてくるから、私もあいみょんが好きになった。人間の判断力なんてそんなものだ
 ―あいみょん…けっこういいですよね
 ―あるいは髭男のほうが好きな人もいる。美的判断は〈悟性と構想力との戯れ〉なのだ
 ―美は、認識と関わらない。美には、快不快しかない…
 ―しかしどうか? 〈美〉には、〈時間〉が、くっついている…君はそろそろハイデガーの『存在と時間』を読んでみたまえ

 やれやれ、最後にまたひとつ宿題を負わされてしまったようだ!

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