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『純粋理性批判』あらすじ3

 理性は感性や悟性と同様人間に備わる能力であり、
 判断された対象から推論により世界の全体像に迫ろうとする能力である。
 理性こそまさに形而上学に直接かかわる能力なのである。

 カントは感性と悟性のなかにあるアプリオリな形式を見出し、
 アプリオリな総合判断を成立させたが、
 それはつまり、
 空間と時間のなかにないものは知覚できず(感性・直感)
 それに対しては認識をもつこともできない(悟性・カテゴリー)

 カントはそこからカテゴリーが該当しうる空間時間的な対象を現象
 それ以外を物自体に分けた。
 しかし、
 物自体が経験も認識もできないのなら、
 それこそまさに形而上学ではないか?
 プラトンのイデア以来、
 形而上学とはまさに物自体を認識しようとする試みであったが、
 カントはそのような形而上学は不可能であるとした。

 人間の認識能力の範囲は現象界にとどまるものであるが、
 形而上学はその領域をこえ、
 人間の認識を無暗に広げてしまった。
 形而上学がそのような誤りに陥った原因は何か?
 それは理性にあるとカントは考えた。
 どういうことか?

 子供は質問する。
 「パパ、宇宙の先には何があるの?」
 「ビックバンの前には何があったの?」

 元来人間の認識能力は、
 けして悟性だけで満足するものではなく、
 常により広範な認識をつくりだそうとする。
 これが理性の働きであり、
 理性はそれを対象認識の推論という形でおこなう。
 理性の役割は認識を深め、
 体系化することである。
 しかし、
 理性の本性はそれだけにとどまるものではない…

 理性の本性は対象に対し関係の系列を推論し、
 完全性に行きつくまでけして推論をやめないことにある。
 人間の理性は認識体系統一のため、
 無制約者を求める本性をもっている。

 無制約者とは何か?
 それは他の何ものによっても制約されずそれ自身により存在するものである。
 具体的に理性が求める無制約者とは、
 「魂の不死」「自由」「神」である。
 人間の理性はこれらの形而上学について、
 完全な答えを求める本性をもつ。
 つまり形而上学の誤りは、
 経験の範囲内に見出すことのできない無制約者を、
 理性が認識できると思い込んでしまった結果であり、
 それは理性に課された運命でもある。

 理性の本性をこのように見出したカントは、
 形而上学の不可能性を論証し、
 アンチノミー論を展開する。

 アンチノミーとは二律背反のことで、
 ひとつの命題(テーゼ)が証明されると、
 同時にその反対(アンチテーゼ)も証明されるという、
 自己矛盾の状態である。
 カントは理性の自己矛盾を提示するため、
 4つのアンチノミーを見出し、
 その論証を試みた(これもまだ文章化するほど理解できていない)

 (※画像貼り付け先Hitopedia)

 アンチノミーは形而上学の不可能性の原理であるが、
 しかしカントはけして形而上学的命題の、
 「魂」「自由」「神」そのものを否定したわけではない。
 それらの形而上学的事柄は人間の認識範囲を越えるものであり、
 それらを理論的に証明することはできないとした。

 ではでは
 カントは『純粋理性批判』で形而上学をあきらめたのか?
 まさかまさか
 ここからがカント哲学の最も痺れる部分である(個人的に)

 カントは理論理性で形而上学的事柄を捉えることは不可能だが、
 それを実践することの実践理性で、
 これらの命題を証明できるとした。
 ようするにようするに
 カントの認識論とは、
 人間の立場から真理を追求することであり、
 人間認識の有限性を自覚した上で、
 実践的行為を行うことが、
 最終目的なのだ!

 次にトルストイやドストエフスキーの小説を例にしながら、
 『実践理性批判』や『判断力批判』を解読していきたい等思うが、
 力不足力不足
 而し昨晩風呂場で髭を剃りながら、
 『ペスト』×『道徳形而上学言論』
 「コロナ禍における人間の自由な在り方」なんてことを夢想していたら…
 剃刀が滑り血だらけになってしまった!

 おわり

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