5.ディコンストラクション
―降参です! 先生、僕には『声と現象』が読めません。僕に理解できたことはあのポストモダンという文体こそ、〈差延〉なんだということです
―ふむ、あれはデリダの混乱だ。それで君は、あきらめるのかね?
―まさか! あきらめるわけにはいかないから、こうして先生に教えを乞うのです。今日はひとつ真面目に答えてくださいよ、先生!
―真面目とは? 君の言う真面目は自己に対してかね? それとも社会に対して? 学校の先生が言いそうな真面目? あるいは夏目漱石が言う真面目?
―またまた茶化して! だから真面目に答えてくださいと言ったのです
―いやいや、私はいま真面目に答えているのだよ。なぜかと言うに真面目という声を、今ここにいる君は発したね。その瞬間、真面目の意味はズレていく
―…差延ですか?
―意味は過去の時間制に帰属する
―それはつまり、えぇっと…
―過去のズレによる痕跡が、今ここに居る〈私〉だ
―まさか自分もズレているのですか?
―まぁそうなる。しかし話がズレてきたので、ひとつ真面目という言葉について真面目に話をもどそうじゃないか。君はいま真面目という言葉を聞いて、一体どんな聴覚映像を発生させた?
―それはなんというか…真剣に話す姿のような…
―夏目漱石の『こころ』の先生は、あなたは真面目ですか?と学生に聞くね。私が連想した真面目はあの真面目だ。あれは先生自身が自己に対して嘘をついているからあのように学生に問うわけで、つまりあの真面目は自己に対して真面目なのかと問うているわけだ。とろろがおそらく日本社会で一般的に言われる真面目のラングは、社会に対して真面目なのかどうかを問うているわけだ
―学校の先生が言いそうな真面目ですね?
―例えば、山奥にこもってヒッピーみたいな生活をしているものが居たとする。社会はそのものに対して、真面目に働けというだろう。しかしそのものは社会に対しては不真面目であっても、自己に対しては真面目に働いているのだ
―…つまり真面目という言葉は、それを〈声〉にして発した瞬間、個人と社会の中でズレていく…たしか〈表現と意味〉ということが、『声と現象』にはありましたね
―うむ。〈記号〉によって何かを現すことが〈表現〉だ。今君が目の前にある現象、例えばお客さんにコーヒーを出すとき、このコーヒーはこのように美味しいと表現したとする。しかし君の表現に対する〈意味の生産〉には、個人が体験した過去の時間制が帰属しているのだ
―それは以前もお話しされていたことですよね。日本人の中でも二十代のイメージするコーヒーと、六十代のイメージするコーヒーはちがう
―あるいはコーヒー嫌いな女子高生がイメージするコーヒーは、キャラメル・フラペチーノかもしれんよ
―たしかにそうですね
―ようするに、〈意味の生産〉は過去の時間制によって個々で異なり、コーヒーという現象にはズレしかない。現象は絶えずズレていく。現象にはズレの運動しかない。さてさて、そんなことを言うデリダはいったい誰を批判しているのかな?
―それはフッサールですね! つまり現象学的還元や超越論的認識は不可能だと、デリダは言うのです。『声と現象』はフッサールに対する批判なのでしょうか?
―自己同一性は不可能であると、デリダは提言する
―コーヒーという声で指し示す現象は、声にした途端にズレていく。そしてその現象を見る〈私〉も、じつはズレが生んだ主体でしかないというわけですね?
―うむ。感度が良い。しかし差延はそんなものではない! 〈差延は現在において自己を表現させない〉〈差延は記号から逃れていく〉〈差延は如何なるカテゴリーにも属さない〉〈差延は言葉でもなく概念でもない〉〈差延は保留である〉〈差延は時間稼ぎである〉〈差延は戯れである〉〈差延は脱臼である〉
―表現者は自分の言葉が表現する意図とはちがった所へズレていくことに直面し、自分を正しく表現することができないということに直面する…でもそうなると…やはりニヒリズムに陥ってしまいますよ!
―まぁ焦ることはない。〈差延〉は入り口だ。表現者は表現〈できる?〉表現者は記号により何かを現すことが〈できる?〉いいや表現者が表現しようとすることは、〈脱構築〉されていく
―ディコンストラクション
―ディ(分離)コンストラクション(構築)だ。我々が今こうして話し合っている声は、〈今ここ〉にしか存在しない。我々の話し言葉〈パロール〉は発した途端消滅していく。その〈過去の音声〉をテキストにまとめたものが〈エクリチュール〉だ。ソクラテスの〈声〉をプラトンは〈文〉にし、西洋哲学は数千年に渡り〈エクリチュール〉を構築してきた。つまりどういうことか?
―つまり〈エクリチュール〉は、構築する過程で絶えずズレてきた
―〈エクリチュール〉は〈パロール〉を侵食しているとデリダは言う
―それだから、デリダは構築されてきたものをあえてズラしていく
―歴史の時間軸で〈パロール〉のリアリティーは失われ、体系化された〈エクリチュール〉だけが肥大化していく
―だからデリダは〈パロール〉と〈エクリチュール〉の二項対立を脱構築する
―ところでスペシャルティコーヒーの定義とは、まさに〈エクリチュール〉ではないのかね?
―君がこれまで推論してきたことは〈言葉の定義〉なのだ。美味しいコーヒーという日常語は、その言葉の意味するところの日常的な関係性のうちで処理されている。しかしひとたび〈エポケー〉し、定義を還元することで美味しいコーヒーという言葉からは日常語が剥奪される。そのとき美味しいコーヒーという言葉が抽象的な観念をもち、永劫の絶対的光源にさらされるのだ!
―しかし先生、言葉から日常性を剥奪したら、美味しいコーヒーという言葉はたちまち不明慮な混沌にさらされてしまいますよ!
―それだから〈脱構築〉する! 〈脱構築〉は出来上がった概念を解体する。それはおそろしく混乱した作業の積み重ねだ。君は本当にコーヒーを、〈脱構築〉できるのかね?
―僕は、コーヒーと哲学が大好きなんです。それはとても、楽しそうじゃありませんか! 僕は固定された既成概念を乗り越えてみせますよ
―すると君は方法を考えなくてはならない。それもただ考えるだけではなく、色々方法を試しながら君なりのフォームを身につけなくてはならない。プロ野球選手が色々な方法を試し、自分だけの投球フォームを確立していくように
―なんだかとても、わくわくしてきました!
―まぁひとつ、真面目に楽しみたまえ!
―はい! 先生。しかしデリダは〈差延〉や〈脱構築〉など、何故そんなややこしいフォームを考えたのでしょうか?
―それはデリダにはデリダ哲学を構築する必然性があったからだよ
―どのような必然性でしょうか?
―アルジェリア生まれのユダヤ人
―・・・ファシズムへの抵抗?
―18世紀から輝きはじめた理性の光は歴史に革命を生み、法を生んだ。しかし時間と共に法体系の〈エクリチュール〉は主権者の〈パロール〉ではなく、官僚や役人のためのものにズレながら生成された。すると元来あった〈法〉の真理は、主権者のものから一部の人間のためのものにズレ、〈エクリチュール〉は権力の恣意的な目的のためのものにズレ、20世紀になるとアウシュヴィッツを生んだ
―だからデリダは、あえて理性の運動をズラしていこうと考えたのですね? そうして〈差延〉や〈脱構築〉というフォームが生まれた…
―それがデリダの哲学だ
―先生…僕はデリダの方法は、素晴らしいと思います。しかし〈差延〉や〈脱構築〉は、ややもすると〈逃走〉へつながっていくのではないでしょうか? 僕はそれよりは目の前の問題に対して、主体的な答えを出す道を考えたいと思うのです
―ふむ、くれぐれも真面目にな!
僕は自宅に帰ってnoteに主題を書いた。方法は無限にあるのだ。
コーヒーと記憶、コーヒーの美学、コーヒーと存在論、コーヒーの社会学、コーヒーの科学、コーヒーの経済学・・・僕はひとつずつ問題に取り組むことにした。
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