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1.コーヒーの話し言葉(パロール)

 今あなたの目のまえに、黒々とした液体があります。湯気立つ香り高い飲み物Coffee、一杯のカップに現象化されるものの背後には、どのような歴史が持続しているのでしょうか?

 コーヒーがまだ商業生産物として扱われる以前、エチオピアの人々は森に生育している野生のコーヒーの木から赤い実を摘みとり儀式に使用しました。

 かれらはコカのようにコーヒーの葉を噛んで茶を作り、それを見たシバ王国の商人たちはコーヒーの種をエチオピアのカファ地方からアラビア半島に持ち帰りました。

 飲料としてのはじまりに関しては様々な伝説があります。10世紀イスラム世界、コーランを読み解き神との一体を求め、宗教儀式の間に覚醒を保つためコーヒーを飲んだスーフィーの神秘主義者たち。かれらは他国の文化を吸収し、ギリシャやインドから学者を招いて「知恵の館」という巨大な図書館を建設し、科学や医学や天文学を体系化していきました。

 アルコールを含まずに精神を刺激するコーヒーはアラビア文化に馴染んだのではないでしょうか? かれらはコーヒーを飲みながら抽象的な思考を深め、現代数学の基礎を作りました。歴史の偶然はなんとも面白い。キリスト教は支配のために、ギリシャ・ローマの文献を焼き払いました。しかし「知恵の館」でアラビア語からラテン語に翻訳していた古代の文献を偶然手にした西洋人はそれを逆輸入するかたちで読み、1000年に渡るカトリック支配から脱するルネッサンス運動を起こしました。このルネッサンスという人間中心主義はその後宗教戦争へ拡大し、人類は近代への一歩を踏みだすことになったのです。

 中世の終わりとともに、コーヒーは世界中に広がりました。14世紀終わりにはイエメンで栽培されアラビアへ広まり、16世紀にはイスタンブールに到着します。17世紀になるとベネチアの商人がトルコ人貿易商からコーヒー豆を購入し、船積みされたコーヒーが初めて西ヨーロッパに到着しました。この魅力的な飲み物はたちまち貴族階級へ広がり、後にブルジョワ階級へ熱烈に取り上げられコーヒー・ハウスを誕生させます。

 屋外での肉体労働が多かった中世ヨーロッパから、時代は近代へシフトしていきます。知的労働やデスクワークに従事する17世紀のブルジョワジーにとって、コーヒーは集中力を高める助けとなったのではないでしょうか? ブルジョワはコーヒー・ハウスに集まって意見を交わし、科学や政治やジャーナリズムを発展させ、保険会社や証券取引所を生み出した小さな商業団体の融合はやがて巨大なシティを形成しました。ジョン・ロックはいったい何杯のコーヒーを飲み、『統治二論』を書いたのか? 仮にこの本を書く燃料があの黒々とした液体だったなら、まさにコーヒーこそ革命を推し進めた燃料であり、歴史にコーヒーという偶然がなければ、アメリカの独立戦争も、フランスの革命も、日本の明治維新も起こらずに、資本主義や民主主義も今のような形で発達していなかったのかもしれない。そのような推察は、さすがに仰々しいでしょうか。

 しかし上の写真をご覧ください。こちらはイスラム教国王妃のように着飾ったポンパドール夫人が、カフェでコーヒーを提供されるエッジングです。「鹿の園」で有名なこの夫人は、ルイ15世の公妾となって湯水のように金を使う一方でサロンを開き、ヴォルテール、ディドロ、タランベール等のパトロンになり「百貨全書」の出版を保護しました。

 コーヒーが毒であるとしても、効き目の遅い毒だ
  ヴォルテール
 コーヒーは理性を明朗ならしめる飲料である
  モンテスキュー

 サロンという舞台で花開いた18世紀の啓蒙思想家たちもまた、コーヒーという液体を飲むことで霊感を蒙っていたのではないでしょうか? ヴォルテールはカフェ・プロコップで一日50杯コーヒーを飲んでいたと言います。ベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファーソンは警察の目を逃れてチョコレート入りの甘いコーヒーを飲みながら政治問題を議論しました。サロンの片隅でひとり『第三身分とは何か』を執筆するシェイエスの姿。コーヒー片手に『フランス人権宣言』に着手するラファイエットの姿が目に浮かぶようです。ある日、パリ・ロワイヤルのテラスでコーヒーを飲んでいたカミーユ・デムーランは立ち上がって空に向かい一発の銃弾を発射しました。「武器を取れ!」たちまち生物のように成長した巨大な群衆はバスティーユにむけ行進をはじめます。

 パリ全市が一軒の巨大なカフェになりぬ
  ミシュレ

 1721年にパリで300軒ほどだったサロンは、ナポレオン第一帝政時には4000軒に増えていたそうです。ヨーロッパ中に広がったコーヒーはその後ヨーロッパから持ち出されることになりました。需要の高まりと上昇する価格を背景に、ヨーロッパ人たちは熱帯地方の探索をはじめたのです。

 オランダ人によってインドネシアに持ち出されたコーヒーの木は繁殖に成功し「コーヒーの帝国主義」という方法は西インド諸島に広がりました。イギリスはジャマイカで栽培をはじめ、フランス領ギアナを訪れたブラジル士官は母国に苗木を持ち帰り、スペインの宣教師たちがキューバに持ち込んだコーヒーはプエルトリコ、グアテマラ、コスタリカ、コロンビア、メキシコ、中南米諸国へ広がり、商業生産物として発展したコーヒーの国際取引を東インド会社のような貿易企業は独占しました。「コーヒー」という言葉の起源にはいくつもの出典があるようですが、ラテン語の「coffea」という学名は、コーヒーの木が加わる植物全体の属性にあるそうです。まさにその名の通り、近代になってコーヒーは世界を征服したのです。

 オランダ領東インド各地の植民地士官として働いていたオランダ人エドゥアルト・デッケルはムルタトゥーリというペンネームで『マックス・ハーフェラール』という小説を書き、帝国主義を社会批判しました。後にこの『マックス・ハーフェラール財団』は、フェア・トレードのマークとなります。

 19世紀になると、貿易独占の解体により世界のコーヒー市場に競争がもたらされるようになりました。産業革命によってコーヒーは労働者や中産階級の主要食品となり、消費は上昇し、価格は下がります。新たな需要を満たすため、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなどの国は植民地で盛んにコーヒーの生産を拡大していきました。

 コーヒーは世界を廻ります。世界のコーヒー需要が高まるにつれ、投資家たちは新しい生産地を開発し、新しい消費地を開発します。資本主義とは、「競争」という原理原則により運動を行う庭のことではないでしょうか? 革命後の近代社会において、人類は闘争の形態をよりシンプルに二つの階級におきかわりました。すなわちブルジョワ階級とプロレタリア階級です。

 貿易に総じて増大する市場は、ブルジョワ階級に新しい闘争領域を作りだしました。市民革命と産業革命を経て政治的支配権を勝ちとったブルジョワは国家権力に入りこみ、国民議会をブルジョワの形式を用いて支配するための事務処理場にかえ、政治権力と結びついて百万長者となった近代ブルジョワは、中世から受け継ぐ階級を背後におしやったのです。

 資本の発展に伴い発達したプロレタリアは、労働が資本を増殖する間にだけ息をしました。中産階級、小工業者、手工業社、商人および農民といった階級はすべて他の売りものと同じくひとつの商品となり、かれらの熟練技術は新しい生産様式によって価値を奪われていきました。

 マルクスの言い現すように「人間の値打ち」を「交換価値」に変えたブルジョワは、宗教的搾取から人類がはじめて手にした自由を、今度は利己的な現金勘定で資本の直接的搾取の形に変え、僧侶も詩人も法律家も医者も全て「賃労働者」に変えました。生産物の販路拡大という欲望にかきたてられたブルジョワは地球上を駆け巡ります。かれらはどんなところでも開拓し、どんなところにも巣を作り、人類の新しい欲望をかきたてて、欲望を満たすたに地球の裏から出る原料を加工し、製品化し、それをあらゆる大陸で消費し、搾取と、生産と、消費という三つの数式の中で運動します。

 20世紀になると、地球を駆け巡る資本によって多民俗の文学は一つの世界文学へ言語化されました。それは一つ国民、一つの政府、一つの法律、一つの利益、一つの税線をもつ「グローバル」という生活体です。この生活体は都市に人口を集中させ、生産手段を集中させ、財産を少数者の手に集中させました。いま「金融」という巨大な餌を手にしたものに働く原理とは「働くものは儲けず、儲けるものは働かず」ということではないでしょうか? もはや人類は、貨幣をも賃労働者へ仕立て上げるようになったのです。

 冷戦の終結により、世界国民的な自由競争に適当した社会制度と政治制度も決定的なものになりました。現在の法律、道徳、宗教とは全てブルジョワ的偏見であり、背後に隠れるものはブルジョワ的利益です。

 いまわたしの手元に、ケニア山脈で最も標高の高いニエリ地区で収穫されたコーヒーがあります。このトロピカル・フルーツのように特徴的な風味特性をもつ素晴らしいコーヒーを飲みながら、次にわたしはコーヒーにおける個人史を語りたいと思います。

 ※参考文献『COFFEE多様性の祝祭』ヴィンチェンツォ・サンダイユ著

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