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写真による現象学的還元の試み

中平卓馬を知るにはフッサール現象学をマジ書きしなければならない。備忘録として、

18世紀にカントが形而上学の限界と科学の土台をアプリオリに規定したことにより、図らずも哲学は死に、19世紀から20世紀にかけて実証科学の時代がやってきた。実証科学とは、測定・反復可能な〔量〕を観察し、結果に基づき理論を作る方法である。この方法のおかげで蒸気機関から原子力発電まであっという間に科学技術は発展し、われわれ生活はおどろくほど豊かになった。

十九世紀から二十世紀社会はもっぱら実証科学によって繁栄し、人間までもが科学により存在を規定されるようになってきた。そしてこの人間の科学的性格(科学的生活態度)は人間にとって決定的な或る問題から眼をそらせていった。
「単なる事実は、単なる事実人をしかつくらない」とナチス禍のドイツでフッサールは主張する。「人間にとって決定的な問題とは、われわれの生命にどのような意味があるのかという問いであり、われわれが自らの人生に対し、如何なる態度をとるべきかの決定である」フッサールは実証主義的な性格をもつ人間(人格)を批判した。

これはソクラテス以来の、即ち普遍的な哲学的問いなのであるのだが、十八世紀にカントが、科学が形而上学の領域へ侵入することを全面的に禁止したため、科学と哲学の道は分れ、哲学は死に、科学が方法、即ち実証科学という技術に成り下がり、技術のみが反映し、本質を問うことはなくなった。
科学者達は方法の意味を問うことのない単なる方法の技術者となった。
計測可能な領域において客観的実在性をもつ科学は怜悧な生活と人類の進歩に役立ち、理系研究者は最大限重んじられるようになった(結果二発の原爆が落ちた)
いきつくところまでいきつき人間の人格が最大限薄っぺらくなった現代社会だが、解体された世界を取り戻すために、フッサールは事物の捉え方を転回することを考え、カント以来新しい学問の基礎づけをおこなおうとした。
それが現象学であり、中平卓馬が写真で〈現象学的還元〉をおこなおうと試みていることは、隠しているがバレバレである。笑
現象学とは何か?
例えば、目の前に「石」という現象がある。客体としてこの石の実在を確実に把握することはできないが、デカルトの言うように、私という主体が石を意識していることは本当である。主体は石を見て「あっ石だ」と思った。そのとき客体(石)への意識を〈一旦停止=エポケー〉し、主体が「石だ」と意識したその「意識の在り方」に意識を向けること。これが〈現象学的還元〉である。
「面倒くせっ」という声が聞こえてきたが、なぜそのようなことをする必要があるのかと言うと、客体が「ある」ことを前提とし、それを描写、分類、体系化することは科学のなすことであり、ガリレオの自然科学以来、人類はその測定術で人間の認識を数学に結びつけ、それを理念化し、数量化し、一般化し、客観化していった。
しかし、そのようにして「石」を体系化することが、本当に正しいことなのか?
あなたが本当に大切にすべきこと、それはあなたの意識のなかにある「石」ではないのか? 手にした石の美しさ、なぜそれを美しいと思う自分が今ここに在るのか、あるいは石に関する個人的な内なる記憶、世界を知覚するときの「わたしの意識の在り方」に注目することで、客体や現象に近づくことをフッサールは説く。
科学や経済学、そして美学まで、いま様々な学問は客体を描写し、分類し、それを体系化することを試みるが、しかしそのような態度は〈生活世界〉から離れ、学問を無意味なものにしているのではないか? 学問の役割はもっと事物によりそうことである。そのような態度が〈超越論的認識〉である。認識なき学問が今ヨーロッパ諸学を危機にさらしているとフッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の中で書くが、この「ヨーロッパ諸学」とはメタファーであり、ナチスの嵐が吹き荒れる中ユダヤ人のフッサールが命がけで出版にこぎつけた書の示す「危機」とは、ファシズムのことである。
そう、科学的な生活態度の行きつく先はファシズムなのだ。
それをのりこえるため、フッサールは日常の客体への意識を〈エポケー〉し、主体への意識の在り方を哲学の対象にしたが、芸術でそれをやってしまった中平卓馬は頭が狂って記憶がぶっ飛んだにちがいない。

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