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2.コーヒーの書き言葉(エクリチュール)

 わたしは自分のことを、スペシャルティコーヒーにおける第二世代、サードウェーブコーヒーにおける第一世代のようなものだと思っています。

 「自家焙煎店」における第一の波、「シアトル系」における第二の波、「理念をもった個人店」がワインやクラフトビールのように個性を持った商品を提供する第三の波。第一の波には、職人という観念がありました。コーヒーという飲み物は気難しい職人が淹れるもので、コーヒー店は敷居の高い場所だった。しかし第二の波でコーヒーは日常的なものになり、第三の波でより品質に焦点がおかれるようになります。

 スペシャルティコーヒーにおける第一世代は、これまで閉鎖的だったコーヒーの世界を開放的にし、一般的な認識を高めました。先輩方はインターネットで情報交換し、グループを作ってアメリカへ視察に行ったそうです。先輩方はそこでスペシャルティコーヒーという「概念」に出会いました。美味しいコーヒーとは何か? 要するに、コーヒーとは植物なんだ。つまり美味しいコーヒーを淹れるなら、それは焙煎や抽出の技術を磨くのではなく、コーヒーの栽培からはじめなければならない。収穫、生産処理、選別、出荷、輸送、保管、それら全ての段階で徹底した品質管理が必要になってくる。〝From Seed To cup〟種からカップまで、これがスペシャルティコーヒーのコンセプトです。

 スペシャルティコーヒーの定義(日本スペシャルティコーヒー協会) 
 1.消費者(コーヒーを飲む人)の手に持つカップの中のコーヒーの液体の風味が素晴らしい美味しさであり、消費者が美味しいと評価して満足するコーヒーであること。
 2.風味の素晴らしいコーヒーの美味しさとは、際立つ印象的な風味特性があり、爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感が甘さの感覚で消えていくこと。
 3.カップの中の風味が素晴らしい美味しさであるためには、コーヒーの豆(種子)からカップまでの総ての段階において一貫した体制・工程・品質管理が徹底していることが必須である。(From seed to cup)具体的には、生産国においての栽培管理、収穫、生産処理、選別そして品質管理が適正になされ、欠点豆の混入が極めて少ない生豆であること。そして、適切な輸送と保管により、劣化のない状態で焙煎されて、欠点豆の混入が見られない焙煎豆であること。さらに、適切な抽出がなされ、カップに生産地の特徴的な素晴らしい風味特性が表現されることが求められる。

 わたしたちは、手元に届いたコーヒー豆本来の味わいを引き出して一杯のカップにし、提供します。しかしここでひとつ問題があります。わたしはどのように、いやわたしだけではなく一杯のコーヒー生産に関わる全てのプロセス上にある人たちはどうようにして、そのコーヒーを適正に判断するのか? そこで共通の物差しが必要になってきます。

 スペシャルティコーヒーはそのカップクオリティーを判断するため、カッピングという世界共通の「判断尺度」を用います。コーヒーの甘さ、酸の質、質感、後味、バランス、風味特性、透明感、それらの項目に点数をつけ、「美味しいコーヒー」を数値化するのです。わたしも先輩方に習い、徹底的に訓練しました。時にクエン酸、リンゴ酸、酒石酸、カリウム、ナトリウム、セルロース、グリセリンなどの化学薬品を使って客観的に目の前のコーヒーを検証し、カッピングフォームに自分の「判断基準」をすり合わせていきました。すると分かるようになるのです。あぁこれは本当に素晴らしいコーヒーだ!コーヒーの種からカップまで全ての工程が完全に行われ、栽培地域特性のテロワールが完璧に表現されている。ケニヤ山の麓にあるニエリ地域特有のオレンジのような明るい酸、古代エジプト女王のようにエキゾチックなエチオピアの香り、森のように力強いインドネシアの土、わたしは前世代が作ったスペシャルティコーヒーの「概念」を学び、「美味しいコーヒー」を知りました。

 スペシャルティコーヒーの定義・捕捉(日本スペシャルティコーヒー協会) 
 1. スペシャルティコーヒーと一般のコーヒーは、SCAJのカップ評価基準に基づき、コーヒーの液体の風味(カップ・クオリティ)により判別・区分する。カップ評価基準はスペシャルティコーヒーの発展・変化に伴い随時修正する。
  2. 生豆についてのSCAJ独自の厳密な評価基準も必要と考えるが、現時点では各生産国の規格に合致していることを条件とし、欠点豆についてはSCAAの基準を参考とする。今後の検討課題とし、必要に応じ適宜修正をする。 
3. 日本人がおいしいと感じるコーヒーの風味特性を研究課題とする。

 それは驚きの体験でした。無知な状態からなにかを知る体験は素晴らしく純粋なものです。思うにスペシャルティコーヒーの普及はひとつの啓蒙活動だったのではないでしょうか? 先輩方は閉鎖的だったコーヒーというものの理解を深め、拡散し、透明性あるものにしました。それは素晴らしい活動だと思います。たまに用事で東京に行く度、わたしは驚かされます。いま東京の街はどこへ行ってもサードウェーブのコーヒースタンドがある。そこでわたしより一世代下の若者が、純粋な情熱をもってコーヒーに接している。その熱にあたり、美味しいコーヒーは机の上の鉛筆のように身近なものとなりました。

 しかしじつは、首を捻りたくなるような店もあります。そして最近はそんな店が極端に増えました。それはあきらかに人間的ではない、はっきり言って極端に資本的な臭いのする店です。この空気、この気分の悪さはどこからくるのだろう? わたしは考えます。そして気が付きます。熱をもって普及したスペシャルティコーヒーは今やすっかりブームにのり、消費に直結している…

 誕生の瞬間そこにあった熱は、膨張と共に冷める。これは宇宙誕生時における自然法則です。そこでわたしは最近、自分の中ですっかり数値化された判断力をひとつ疑ってみるのです。いやいや時にはインスタントコーヒーだって、美味しいものではないのか? と…


 ときに人生は、ただコーヒー、それがどれほどのものであれ、一杯のコーヒーがもたらす親しさの問題。
 リチャード・ブローティガン

 

 ―なるほど、ブームね。しかし資本を増殖するには、常に新しいブームが必要なのだから…それにしても、インスタントコーヒーとはまた…

 ―ブームにのって、今やコーヒーは「物」となったのです。現代におけるコーヒー現象を突き詰めていくと、経済現象そのものに行きつくはずです。ブームとは、蓄積された生産を浪費させるための装置なんです。生産されたものがブームにのる時、ものの目的は生産そのものとなり、経済を支える無益な人間の消費活動に結びつけられる。消費は人間感情に訴えられます。無意識の広告により、「物」から溢れるイメージを印象付けられた消費者感情は理性を欺き、「物」が合理的な消費に組み込まれる時、「ものそのもに」対する合目的な判断も批判も停止する。そう思いませんか、先生?

 ―君は経済学が好きなのかね?

 ―嫌いです、先生。経済学が扱う問題はあまりにも狭すぎます。思うのですが、コーヒーって本来、かっこつけるために飲む物だったと思いませんか?

 ―たしかに。それは煙草や、女や、背伸びや、青春、その他色々な観念に結びついているね。なるほど、君が言いたいことは…「コーヒーのものそのもの」という存在論的認識論か? そしてその問題を扱う学問は…形而上学だね?

 ―ええ、そうなんです。今やコーヒーは「存在」から「情報」になってしまった。「美味しいコーヒー」という物がある概念をもち、あたかもひとつの真理のように定義づけされています。しかし物事をそのようにだけ捉えるということは、それに付随する体験や映像を自ら破棄していることになりませんか?そしてそれはなにか人間の思考範囲を狭める情報のように思えるのです。同義語や対義語を破棄した末、最後に「美味しいコーヒー」がたったひとつの言葉で定義づけされてしまう。もちろんそこまで言うと大袈裟ですが…これはなにもコーヒーだけの話しに限りません…

 ―君の話を聞いていると、なんだかジョージ・オーウェルの小説を思い出すよ。君の話しはまるでニュー・スピークみたいだ。

 ―先生!現代は観念の獲得よりも概念を暗記する時代です。そして外側には情報が多すぎる。しかし人が物事を獲得しようと試みるなら、それは内側の眼をもって視てはじめて可能になるはずじゃないですか?

 ―それはもちろん理想だ。しかし現代生活の幸福を保証するもの…それはある種の無関心ではないのかね?

 ―それは悲劇です!正直なところ、僕はもうコーヒーに退屈している。あの、マーケティングの役割は商品の創造ではなく顧客の創造にあるのだとかいう市場の言葉にうんざりするんです。現代のコーヒーにはロマンがない。

 ―君は経営者にはむいてないようだね。

 ―ええ、だから僕はただ小商いの店主で満足なんですよ。

 ―ふむ、それはよい人生のようだ。しかしどうだろう? 君は先ほど自然の法則云々と言っていたね。しかし本当の熱とは、社会の状況とは関係なく、内側から自然に発生せられるものではないのか? それはマグマのように湧き上がり、けして消すことの出来ない地熱のことだ。君が退屈しているものは…本当にコーヒーなのだろうか?

 ―………

 ―それで君はこれからどうしたいのかね?

 ―僕は僕の中で、もう一度コーヒーを捉え直したいのです。

 ―うむ…ところで君は、デカルトとカントはもうすっかり読んだね?

 ―ええ、一応読みました。

 ―それなら次はこれを読んでみなさい。

 ―これは…『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』フッサール

 ―君の問題を要約するとだな……君は「コーヒー」というパロールとエクリチュールの差異の戯れが差延へ運動し、二項対立の内で矛盾にさらされているのだ。君はその問題をのり越えようとするなら、「コーヒー」を脱構築するしかない。しかしその前に、現象学だ。これを理解しないことには話にならん。その本を読んだら、もう一度私の所へ来なさい。

 ―先生!ご教授願います。

 こうしてコーヒーを脱構築するための旅がはじまった。

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