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永遠の父親〔どうして校則を守らなくちゃならないの? その2〕

 歴史とは人間が人間となる場である。
 人間は、反抗の行為によって進化を続けてきた。良心や信仰の名において権力者にあえて〈ノー〉と言った人びとがあったからこそ、人間の精神の発達がありえたのだが、そればかりではなく、人間の知的発達も、反抗の能力にかなっていた―新しい思想を抑圧しようとする当局者や、昔ながらの考え方を守り、変化をナンセンスときめつける権威者の反抗の能力に。
 反抗の能力が人間の歴史の始まりをなすとすれば、服従こそ、さきに言ったように、人間の歴史の終わりをもたらすかもしれない。

 「キリストも仏陀も、みんな反抗してきたんだ」
 「なんかロックだね」
 「反抗とは、肯定のことなんだ」
 「おっしゃ! おれも反抗してやるぞ」
 「あっ、ちょっとまって。君もしかして、先生を殴ったりしないよね?」
 「えっ? そりや場合によっては2,3発…」
 「やっぱりだ! 誰に似たんだか、君は気性があらい。ダメダメ! そんなことしていちゃダサいぞ!」
 「ダサいの?」
 「ダサい、ダサい。いいかな。君は最後の不良になるんだ! でも暴力はいけないよ。尾崎豊じゃあるまいし、校舎の窓ガラスなんて割っていちゃダサい。君は言葉で、自由な人間になるんだ」
 「ようするに説得しろってことね」
 「反抗とは生活態度のことだ。それは人間の在り方のことだ」
 「ふーん。通知表でも生活態度って点数化されるけどさ、〝反抗〟も生活態度なんだってのは面白いね。でもパパの生活態度にはどんな項目があるの?」
 「良心の声」
 「ふんふん。声がするの?」
 「それは外部の制度や報酬に左右されない、全ての人間に存在する自然の声だ。目を瞑ってゆっくり声をきいてみなさい。君の声はデザインカットがいけないものだと言っているかな?」
 「言ってない」
 「それなら君は声にしたがわなくてはいけない。良心こそ、個人が人間としての役割を果たすための助けとなる。それは人間を自分自身の人間性へ呼び戻すための声なんだ。反抗とは、孤独で不安で苦しい行為だよ。それだから、生徒は学校という権威の示す生活態度に服従する。権威に服従しているかぎりにおいて、個人は安心だし安全だ。しかし君は良心に従おうと思うのなら、権威に服従してはならない。君はけっして、自由から逃走してはならないんだ」
 「反抗とか自由って、楽なものじゃないんだね。でもなんだかカート・コバーンみたいでかっこいい」
 「この本だって、言葉でカート・コベインしているよ」

 反抗といっても、〈ノー〉と言う以外に人生に対して何のかかわりも持たないから反抗するという、〈いわれなき反逆者〉の反抗を言うのではない。この種の反逆的反抗は、その制反対、すなわち〈ノー〉と言いえないがゆえの順応的服従と同じく盲目であり、無力である。私が言っているのは、肯定しうるがゆえに〈ノー〉と言える人物のことであり、良心とみずから選んだ原理に従うことができるからこそ反抗しうる人物のことである。
 ここで用いている意味での反抗とは、理性と意志を肯定する行為である。それは本来何かに反する方向の態度ではなく、何かを求める方向の態度である。人間がものを見る能力、見たものを口に出して言う能力、見ないものを口に出すことを否定する能力を求める態度である。そのためには、攻撃的あるいは反逆的になる必要はない。必要なのは、目を開き、十分に目覚め、半ば眠っているゆえに滅びる危険にある人びとの目を開かせる責任を、進んで引き受けることなのである。
 アイヒマンは組織人間の象徴であり、私たちすべての象徴である。私たちは自分の中にアイヒマンを見ることができる。彼の最も恐るべき点は、自白によってすべてを語ったのちでも、心から無罪を信じて、それを主張しえたことである。再び同じ状況になれば、彼がまた同じことをすることは明らかである。私たちもするだろう―現にしている。
 組織人間は、反抗する能力を失ってしまったし、服従しているという事実に気付いてさえいない。歴史がここまで来た以上、疑い、批判し、反抗する能力が、人類の未来と文明の終焉との間にある唯一の防壁かもしれない。
 子供はただ〈自分を表現〉するのだ。ところが、生まれた時からずっと、子供は従順をこの上なく重視し、〈他人と異なる〉ことを恐れ、群から孤立することをこわがる気持ちを詰め込まれる。かくして家庭と学校で育てられ、大きな組織で教育の仕上げをされる〈組織人間〉は意見を持つが、信念は持たない。楽しむことはするが、幸福ではない。

 「学校って、空気を調整する場で、身体を同調的に拘束する場だよね。カメレオンみたいに周囲と一体になっていると不安や孤独を感じる必要はないだろう。でもそうなると、いつのまにか自分を喪失してしまうぞ! 君が自分のものだと思っていた思考や感情は、いつのまにか他人のものにすりかえられてしまうぞ! 君はどのようにして君の在り方をつくっていくのかな? パパは勉強は教えてやれないけど、君のやりたいことを手助けすることならいくらでもできる」

 《ここで真剣に考えるべき教育の問題は、親には子供の自由を奪うことが許されるのか? ということだ。ある人は言う、親は子供の将来を考え、子供を立派に育てる責任を負うているのだから、子供は親の言うことにしたがう義務がある。たしかにこれは一般論だろう。自由であるということには責任を伴う。責任が果たせぬものに自由はない。たしかにこれもうなずける。しかしその上で、ぼくはひとつ提案したい。それではその時々において責任を果たしうる最大の自由を、子供に与えてはどうか? 子供にどれだけ自由を与えるべきか? この議論は誤りだ。そうではなく、親は子供が将来〝自由であるように〟育てるべきなのだ。自立したひとりの自由な人間になること。それだけが教育の目指すべきところであり、その子が医者になろうが官僚になろうがユーチューバーになろうが親の知ったことではない。なによりも自由な人間でありさえすれば良い。そしてそのためには、なによりも親自身が自由である必要がある。自由という物自体は言葉では伝えられない。それは子供にとって家庭の空気そのものであり、親の在り方そのものだ。親の在り方に自由があれば、子供は自然に自由を知るだろう。教育とは、子供にそうなってもらいたい人間に、親がなりきって生活することなのだ!》

 「自由って難しいね、パパ」
 「頭で考えていてもね」
 「どうやったら自由になれるのかな?」
 「パパはね、君が将来何に成るかなんてことには興味がない。君がどのような人間で在るか? パパはそのことを楽しみにしている」
 「人間の在り方って、ますます難しいね」
 「それなら身体をつかいなさい」
 「身体?」
 「君は来年エース・ピッチャーになるんだろう?」
 「でも野球と自由が関係あるの?」
 「君は君の投球フォームをつくるんだ」
 「フォーム?」
 「ダルビッシュは毎年フォームを微調整しているね。イチローだってそうだ。プロ野球選手は色々な方法を試しながら自分なりのフォームをつくっていく」
 「大谷は昨シーズン、すくなくとも4回はバッティングフォームを修正していたよ!」
 「君だってそうすればいいじゃないか。時にスリークウォーター気味に投げたり、サイドスローで投げてみたり、そうやって君は君の身体に合う投球フォームを身につければいいじゃないか」
 「それが人間の在り方をつくることになるんだね」
 「もうひとつある。なんで大谷だけが二刀流なんだ?」
 「それは凄いから!」
 「でもプロ野球選手になるような人って皆高校時代4番でピッチャーだよ」
 「たしかに。でもプロになる時は、どっちか選択するね」
 「大谷だけがどっちも選択した。なぜかな?」
 「それは大谷が、自分の可能性を信じたからじゃない」
 「そうだね。でもその前に、きっと大谷は自分の必然性について考えたんだと思うな」
 「大谷の必然性って何?」
 「190cmの身体、160kmのストレート、140mのホームラン、あとは肩甲骨の稼働領域とか色々あるんじゃないか」
 「なるほど。大谷は自分の必然性を洞察したわけだね」
 「そこから大谷は、二刀流という可能性をつくりだした」
 「大谷は自由だね」
 「まさしく」
 「最初はピッチャーだけに絞るべきだとか色々言われてたけどさ、今ではメジャーリーガーが大谷の真似をしているよ!」
 「うん。それでね、必然性とは人間を縛る〝鎖〟のことで、可能性とはそれを断ち切る〝斧〟のことだと思うんだ」
 「…でもそれって、けっこう難しい話だよね。バランスが大切な気がするな」
 「うん、そうだね。斧を振りまわすだけなら夢想家だ、鎖に縛られているだけなら俗人だ」
 「なんだか人間って、絶望的じゃない」
 「それが人間の本質なんじゃないかと、パパは思うんだ」
 「人間の本質?」
 「鳥の本質は空を飛ぶこと。魚の本質は海を泳ぐこと。でも人間の本質は、なにも決まっていない。だから人間は自由なのであり、人生の中で自ら選択して意味を与え、自分で自分の本質を創っていく。人間の本質は主体的に自由を生きることにあるんだ」
 「…パパ、あのさ。自由ってやばいじゃん!」
 「やばいでしょ!」

 《〝自由〟というひとつの言葉から、いったいどれほどの広がりをみせることだろう? 法について、政治について、歴史について、道徳について、青年期のかれにはこれらの観念をひとつひとつ獲得していってもらいたい。ぼくはそろそろかれを社会人として導く時なのだ。社会の観念は契約にある。かれは自分と契約した上で社会と契約する。かれは自分に関して徳を備えている。そんなかれが社会的な徳をもつということは徳の関係性を学ぶということだ。かれはそれを知るための理性を備えている。今のかれにないものは知識であり今こそ知識を学ぶ時がきた。かれはこれからの10年で、知識を獲得していくだろう。しかし社会人になる前に自然人として育ったかれが知識に支配されることはない。かれは知識を支配する。かれは社会人になっても積極的に孤独な市民であり、かれは自然に自分を尊敬しているから他人を尊敬し、すべての多様性を祝祭するだろう。善悪とは悟性で知覚するものではなく、理性により照らされるものだが、照らされた物自体が善悪なのではなく、それらのものを照らす自分自身に善悪という観念の光があるということだ! かれは全ての個人一人一人に敬意をはらい、全ての集団を軽蔑する大人になるだろう》

 「おれの必然性って何なのかな?」
 「いま2019年の日本という時空に生きているということ、パパやママの子供だということ」
 「おれはそこから可能性をつくらなきゃならないんだね」
 「大人になったら仕事をもつ。大人は仕事を通じて健康を獲得する。大人は自分以外の人間の役に立たなくなったとき病気になるんだ。そしてじつは子供だって、本当にやるべきことは自分の仕事以外ないのじゃないか? 君は君の仕事をみつけなさい!」
「おれの当面の仕事はチームのエースになることだ」
「そうこなくっちゃ! 試合楽しみにしているよ」

 存在に関係をもたない学びは悪であるが存在の完成を助ける光は善である。なぜ存在に関係しない学びが悪となるのか? そのような学びは人間の精神を殺すからである。なぜ存在に関係する学びが善となるのか? そのような学びは人間の精神を生き生きと活動させるからである。

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