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松江で教育学(部)のジレンマを想う

昨日まで「スポーツ哲学」の集中授業を担当するため、島根県の松江市に行っていました。訪れるのは初めてでしたが、授業を受けてくれた学生や宿泊したホテルにも恵まれて、とても良い時間を過ごせました。

授業の最後の発表会の様子。日本のスポーツと体育の課題について考えてもらいました

しかし、そんな素敵な松江タイムの中でも、なんとなく考え込んでしまうこともありました。いわゆる国立大学における教育学部の縮小・衰退です。

色々複雑なことは省略しますが、とにかく地方国立大教育学部の教員不足は深刻だなと実感しました。教育学が決して専門ではない私としても、これでええのかしらん?と思ってしまったわけです。

教員養成課程については、私も今の大学に来てから初めて知ることばかりでしたが、とにかく最近の傾向は削れるところは削っていく、そして、最低限の教員組織とカリキュラムでなんとかやっていこうぜ、そんな感じなのです。もちろん、この道を進めているのは国であり、また、それを支持する人々であって、決して現場の大学教員がそのように考えているわけではないと思います。

少子化を見越してとか、運営交付金が減らされてとか、よく言われていることは教育学部の規模に関して大事なポイントなのですが、それでもどの程度までならOKなのかというのを考えるのが肝心でしょう。そして、おそらくですが、多くの地方国立大の教員養成課程はその限界を踏み越えているんじゃないかと、肌感覚で感じる今日この頃です。

昨今の流れでいけば、私のようなスポーツの人文社会科学を専門とするような研究者はどんどんいらなくなります(スポーツ科学の世界でもガラバゴスなんですが、それはさておき)。今はまだ過渡期なので、逆に希少価値があって、他の大学の授業を任されることがあるだけだと思います。でも、より良い教員を養成するという観点に立った時に、本当にこれで良いのかと頭を抱えてしまいます。だって、このまま行けば明らかに教員の仕事(という特殊な領域)に必要な知識や技術だけを学ぶことが中心の職業学校みたいになる可能性があるわけで。

しかし、教員になるプロセスにおいて、人間や社会について深く考える経験と機会を奪っていくことは、今のような時代において、なお教師になりたいと考えている学生たちにとって、本当に良いことなのでしょうか。

私が関わる保健体育という教科に限ってみても、授業デザインとか、教材開発とか、実技指導の方法とか、そのような実際的なテクニックの教授だけで済ませて良いのだろうか(もちろんこれらが大事なのは言うまでもない)。

身体とは?健康とは?スポーツすることとは?
そのような、かつては「体育原理」が担っていたであろうテーマを軽んじて良いのだろうか。私自身の専門分野を過大評価する訳ではもちろんないのですが、スポーツ人類学とかスポーツ社会学が教育学部で教えられていることの意味を色々と考えさせられます。

一方で、今の時代の教師に伝統的な全人教育を求めることもまた違うと思います。一人ひとりの教師に幅広い教養を求めるばかりでなく、むしろ、子どもの教育に関わるアクターや集団をもっと増やしていくことも大事でしょう。振り返ってみれば、私自身、影響を受けた存在は学校の先生より、もっと別の人だったり、小説だったり、映画だったり、音楽だったり、それこそアスリートだったり。

この意味で、昨今の部活動の地域移行は本気で考えれば良い試金石になるのかもしれません。わかりませんが。

とはいえ…

真冬の松江の雪のちらつく灰色の空の下、国が公教育にお金をかけることをやめていく様を見せつけられて、いったいこの国はどうなっていくのだろうと柄にもなく感じたのでした。

もちろん、そんな風に憂いながらも、しっかりと日本海の魚に舌鼓を打ち、温かい温泉を堪能したんですが。

お刺身はもちろんどの料理も美味しいお店でした





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