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息子の背中に見とれてしまった日のこと

────エッセイ

ランニングを始めてから、そろそろ10年になる。走り出したきっかけは、とても単純で体型の変化を感じたから。ストレートに言えば太ったからだ。

当時は単身赴任中。お金はないけど時間はある状態だったから、ランニングは時間つぶしにうってつけだった。はじめは1km走るのもしんどかった体が、1ヶ月、3ヵ月と続けていくうちに楽になってくる。5kmを30分以内に走ることを目標にして半年ほどたった頃だろうか。5kmを走り切り、目にした腕時計が29分台を示していたときの喜びは忘れられない。

ランニングを続けるほどに、だんだんタイムは縮まっていった。ぼくのベストタイムは、5年ほど前に出した10km、45分だと思う。20kmだと101分(なんどやっても100分の壁は超えられていない)。「えー、速い!」と思ってくれる人もいるかもしれないけど、市民ランナーのレベルで言えば平均値に近い数字だと思う。

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長いこと走っていると、他の人が自分より速いかどうかが、なんとなく分かるようになる。自分が全力で走っていて、後ろから追い抜かされたらハッキリするが、そうでなくてもなんとなく分かる。同じスピードでも、速いひとが流す5分/kmと普通の人が必死に走るそれは違う。前を走るランナーの、肩の動きやけり足の角度を見ながら、「おっ、この人はめちゃくちゃ早いかもしれない!?」と想像しながら走るのは、案外に楽しい。

年末休み。部活も休みで体を持て余した長男が、「ちょっとランニングしてくる」と家を出ようとした。ちょうどぼくも、走りに行こうと思ってたので「一緒に走る?」と冗談っぽく誘ってみる。

「…… 別にいいけど?」

果てしなくフラットに、抑揚のない声で答える長男。ごめんごめん、面白くない冗談をいったお父さんが悪かった、と不要な謝罪を心の中でして長男を見送った。ぼくは、走る前のウォームアップは念入りにやるほうだと思う。最低でも5分、普通は10分くらいかけてストレッチで体をほぐす。長男から遅れること15分、ぼくは走り出した。

うちの近所のランニングコースは、大きく分けると二つしかない。大きな公園まで走って園内を周回する「公園コース」。川まで下り、川と並走する「川沿いコース」。コースといっても、区画整理された立派なものじゃない。ただ、信号が少なく歩道が広いからランナーが多いだけの普通の公道。長男が川沿いに行くといってたので、ぼくも川沿いコースを選んだ。

長い下り坂をゆっくりと走る。川に突き当たり、遊歩道を左折した。ここから約5km、信号が数か所しかなく走りやすい歩道が続く。大晦日を目の前にした12月の夕暮れ、冷たい風の中を走る。

二つ目の信号が遠くに、ちょうど赤に変わる瞬間が見えた。そこは片側2車線の大きな国道。信号待ちも長いので、できれば止まりたくない。何百回と走ったコース。タイミングをはかることは難しくない。信号まで約300M、少しペースを上げればちょうどいいはずだ。ゆるい上り坂を息を上げて走る。90秒後、横断歩道の少し手前で信号は青になった。ドンピシャのタイミング! こんな瞬間もランニングの楽しみだ。歩く人の邪魔にならないよう、横断歩道の左端を駆け抜ける。

あれ? なんだろう??

視界の端、横断歩道の右端に何か違和感を感じてスピードを緩めた。違和感の先を視線で追う。ランニングウェアに身を包んだ長男が、横断歩道を横切り、ぼくが登ってきた緩やかな坂を風のように駆けていった。歩行者用の信号機が、青く明滅するまで長男の後ろ姿に見入ってしまう。

あぁ、ぼくより速くなったんだね

背はとっくに抜かれていた。短距離も中2の体力測定の結果を見れば、ぼくより速いのは明白だった。長距離が最後の砦だったんだ。父親として、前を走っていたい。子どもに背中を見せつけたいという単純な気持ち。それも、追い抜かれたんだと実感した。

長距離なら、まだまだぼくの方が速いよ

ことあるごとに妻に伝えていた父親としての意地。なにをムキになってんのよ、とあきれた顔をする妻の口元も緩んでいたっけ。横断歩道を渡り切り、ぼくはいつものペースで走り出した。帰ったら、妻に今日のことを伝えよう。長距離もぼくより速くなったみたいだと。きっと、当たり前じゃないのと妻は言うだろう。そして、ふたりで嬉しそうに笑うんだ。

そんなシーンを想像しながら、12月の夕暮れ、冷たい風の中を走った。



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