自分を責める気持ちがあってもいい
俳優の自死をきっかけに突如最終話になったドラマを観ていた。
産後テレビを見なくなったのだけれど、ふとつけたらそれがやっていた。
あの訃報の日、その俳優さんの友人がテレビで歌いながら泣いているのも見ていた。
その涙が彼に向けてなのか、なにか別のことだったのかは視聴者からはわからないが、SNSでは前者だという話が盛り上がっていた。
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「自分を責めなくていい」
「彼は望んでいたんだ」
「彼の分も一生懸命に生きて」
私も、友人を同じ形で急に亡くしたとき、周りがそう声をかけてきた。
「ありがとう」
「あなたのおかげでここまで頑張った」
そう言われたこともあった。
ただ、最後にやり取りをしたのが私だったこと、病気を打ち明けていた人が私とあとごく僅かの人だったことは事実で、とにかく私は(なにかできたんじゃないか)という気持ちでいっぱいになった。
「自分の人生を大切にして」
「彼だってあなたの幸せを願ってる」
当時かけてもらった言葉を思い返すに、私の落ち込みようはひどかったんだと思う。
でも正直、何ひとつ響かなかった。
だから、心配されないようにみんなと距離をとったし、当時高校3年生だったこともあり、急に受験勉強をしだして、寝れない日々を肯定するかのように机に向き合った。
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ー何ひとつ響かなかった
この経験は大きい。
そのあと奇跡的に合格して進学した大学、そして進路を決めるにあたっても、このシコリは残った。約7年、心の中にはその友人の死への後悔があった。
表立って落ち込んでいたわけではないけれど、ふいに思い出していたし、(幸せだな)って感じる瞬間にその場から身をひこうとする自分がいた。
(私は幸せになっちゃいけない。)
いつも根底にその気持ちがあった。
元々「泣く」っていう行為や感情が希薄だったタイプだけれど、この7年はいっそうそうだったと思う。
(泣いたところで何も変わらない。)
そんな風に思っていて、悔しいとき、辛いときは友人のお葬式のひと幕を思い出しては、ぐっと耐えていた。
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そんな日々があるとき終わったわけだけれど、渦中にいた私が欲しかった言葉は、
「色んなこと思っていいよ。思うのは自由だよ。」っていうものだったと思う。
自分を責める気持ちは止められず、時間を巻き戻せたらと願うこともやめられず、人の幸せは願えるのに自分のことは置き去りにしてしまう、、
そんな状態は不健康なことは重々承知なのに変えられない。
本当にそんな日々だった。
だから、今なにかを抱えて、(こんな状態はやめなきゃいけない。)と苦しんでる人がいるとしたら、
「思ってるのは自由だよ。」と言いたい。
湧き上がってくるものを抑え込んだり、代替すること、忘れようとすることは、時にできるけど、時にできない。
それで良いから、やめなきゃ、止めなきゃ、って考えすぎて囚われないようであってほしい。
時間は巻き戻せないし、誰かの不幸と誰かの幸せは表裏一体であることは事実かもしれないけど、今浮かんでいる感覚や感情だって自分にとっては事実。
その感覚を誰かに話せたり、どこかに吐き出せたらなおいいのかもしれないけど、私は心配かけたくなくて、あとは理解されないと思いこんでいてできなかったから、そっと胸に潜めててもいいと思う。
話したくなる時、つぶやきたくなる時ってふと来たりするから、だから大丈夫。
今浮かぶ感覚や感情を大切にしていいからね。思っちゃいけないことなんてないよ。
そんなことを書き残したくおきたくなった。
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