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不当判決分析後半〜子育てってよくわからない!って開き直る裁判所の闇?エリート組織、子育てをしてこなかったから、子育てを軽んじる〜固定的性別役割分業の果てに造られた家族法実務構造の問題

共同親権が止まらない

昨日に続き、不当判決分析をする

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後半を☑

3 当審における控訴人らの主張に対する判断
(1) 控訴人らは、親がその子を監護及び養育する権利である養育権が憲法13条 により保障されているとした上で、本件各規定はこの養育権を侵害するものであり、 憲法13条に違反する旨を主張する。
 しかしながら、控訴人らは、控訴人らが主張する養育権の外延が明らかでないことを原判決により明確に指摘されているにもかかわらず、依然として「子を養育する意思と能力を有する親が、子を監護及び養育する権利」 というだけで、その外延を明らかにできない。
 子の監護及び養育といっても、その具体的内容については、子と同居し生活を共にすること、子に毎日の食事を与え、睡眠をとらせること、子に教育を受けさせること、子の生活のために必要な費用を負担すること、子の日々の生活に必要な事項を決定すること、子の進学先や医療方針を選択決定すること、子の財産を管理することなど、幅広く多様なものが想定できるところ、一般的に子の監護及び養育といった場合の中核部分が何であるのかについて世間一般の共通認識があるものとは解されない。控訴人らの主張内容から帰納的に考察すれば、非婚時単独親権制によって侵害が観念されることとなる非親権者の利益一般を指しているようにも解されるが、そのように理解をしてみてもその具体的な範囲が直ちに明らかになるものでは ないし、他方で、控訴人らが、父母が婚姻中であっても子の監護及び養育について父母間の意見の調整規定がないために養育権が侵害されているとも主張していることを考慮すれば、養育権がいかなる権利であるかについての控訴人らの主張は判然としないといわざるを得ない。そうすると、控訴人らが主張する養育権の外延は明らかでないという他なく、そのような権利が憲法上の権利であるということはでき ない。
 この点について、控訴人らは、表現の自由や憲法13条で認められるプライバシ一権もその内容が一義的でなく、その外延が極めて曖昧であるから、外延が曖昧であること等を理由に養育権の人権性を否定することはできない旨を主張するが、人がみだりに公開されることを欲しない私事が何であるかについては社会通念上一定の共通認識が形成されているものと解されるから、プライバシー権の内容が一義的でなく、その外延が極めて曖昧であるなどとはいえず、また、表現の自由について も同様に解されるから、上記主張は当たらない。
 しかも、子の監護及び養育は、本来的には子の人格的な生存を確保するために行われるべきものであり、親にとって義務的な側面が強い事柄である。親自身にとっても重要な価値であり、権利的な側面が存在するとしても、その両面は密接に関連して不可分というべきものであり、少なくとも、その権利的な側面 (しかもそれは従的な側面である。)のみを取り出して、その性質を論じることは相当でない。子の監護及び養育をすることについて親の利益を認めるとしても、それは他者(子) の利益を考慮することなしに存在することがありえない利益であり、そのような他者に対する義務的側面を併せ持つという点においても、一般的な憲法上の権利と性質を異にするものという他ない。
 以上の検討に加えて、子の監護及び養育はけっして今日的な問題ではないにもかかわらず、これに関する親の権利について憲法に明文の規定がないこと、憲法24 条2項は、婚姻及び家族に関する事項について、具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるものとしていることをも踏まえれば、控訴人らの主張する養育権が憲法13条で保障されているものと解することはできず、本件各規定が憲法13条に違反するとの控訴人らの主張はその前提を欠くものであり、 理由がない。
(2) 以上のほか、当審における控訴人らのその余の主張も、実質的に原審におけ る主張を繰り返すもの又はその前提を欠くものであるなど、前記1及び上記(1)の認定判断を左右するものに足るものとは認められない。
4 結論
 以上によれば、控訴人らの請求をいずれも棄却した原判決は相当であり、本件控 訴は理由がないから、これを棄却することとして、主文のとおり判決する。
東京高等裁判所第16民事部

R6.1.25不当判決5ページ~より

養育権の外延がわかんない~といいつつ、

  • 子と同居し生活を共にすること、

  • 子に毎日の食事を与え、睡眠をとらせること、

  • 子に教育を受けさせること、

  • 子の生活のために必要な費用を負担すること、

  • 子の日々の生活に必要な事項を決定すること、

  • 子の進学先や医療方針を選択決定すること、

  • 子の財産を管理すること

⇑わかってるっしょ、養育・子育てが何なのか

それが全部奪われているわけよ、全く会えないだけではなく、制限的にしか会えなくてもしかり

子の監護及び養育はけっして
今日的な問題ではない


そう昔からの営み
だから、自然権なんじゃないの???

海外と比べて、内心の自由が明記されているのは珍しくって、日本国憲法にそれがあるのは、それを踏みにじってきた歴史的な反省があるもの

かつて尊属殺重罰規定もあったほどの国で、親はそもそも敬うものという価値観がすでにあったのではないか

確立しているからこそ、明記もされなかった

いかようにもツッコミがいれられるが、なかなか子育てをバカにしているのがよく伝わってくる

子育ての尊さ・親としての営み

尊重しません!とハッキリと宣言したようなものである

そんな司法の姿勢で、形式的に共同親権の条文になったところで、果たして

ある種不安感はわかる

親が子を養育すること、それ自体の尊重を否定する国である

共同養育という価値だけ掲げて、納得もしていなかったり、スキルもなければ、反対派が懸念する苦痛の継続というのもまんざらでもないような気がしてしまう

割と歓迎できないと思っているのはこういうこと↓

共同養育後の紛争再燃・断絶相談、増えてます


うまく連れ去りを回避したとしても、根本的なスキル(おそらくCoそだて的には、リーガルマインドとコミュニケーション術と理解)の習得がなければ、単に親子断絶の先延ばしなだけで、時間の問題だったりする

家庭裁判所の審判では到底出なそうな、毎週末交流みたいな高頻度の交流をすることで取り決めをしたはいいが、1年も持たずに紛争が再燃し、結局、従来型の弁護士に依頼され、家裁実務とかけ離れた異常な高頻度の交流を取り決めているが真意に沿うものではなく、実際に負担となっているから、通常どおり、月1に減らすー、しばらく断絶ーというような面会交流事件の申立が起きていたりする

共同監護を安定して継続しているのは・・・


まきコーチしか知らない!

あるいは、ガチガチの債務名義を得るべく、裁判手続を重ねて徹底して争った果てに、とか

高葛藤になりたくない、ではなくて

争いたくない、でもなくて

徹底して抗戦モードで挑まれているのだから

防衛のための闘いをしなければならない


争わない、真の実像とは


実際にいる
どちらかというと、別居親が被害者となっていて、会いに行くというアプローチ自体、怖い感情が上回ってしまったりする

会いに行かないという解決


”会えない”とは違うフェーズだったりする
自ら、『会いに行かない』、のだ

心身の回復を優先し、自身の幸福や夢に向かって人生を前進させること

単独親権制の今は、ある意味その選択肢が確立しているともいえる

再婚することだって、幸せに生きるひとつの方法として尊重されていい

共同親権によって、共同養育が変わる!

離婚するって決めた相手なのだ、もう他人として、マダ妻マダ夫的に期待して、喧騒を続けるようなこともなく、揉めない距離を確立した中で、親子関係を育んでいくこと

 離婚ができなくなる心配の声も、わからなくもないのである

 離婚したというケジメある関係性の中での
共同監護を安定して継続させる

それが、共同親権



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