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#6 猫と妖精と、時々雨


 それは、人ではなかった。
 姿形は人そのものだが、問題はその大きさだ。背の丈は猫である自分よりも小さく、背には透き通るような薄い羽が生えている。鳥や虫にも見えたが、たとえどれほど小さくとも、見覚えのある顔貌は人そのものだった。顔にはまだ幼さが残り、少女といっても差し支えがないかもしれない。
 透明なガラスの窓を挟み、その奇妙な人のような生き物と、しばしの間、見つめ合った。気まぐれに立ち寄った小さな建物。立ち並ぶ窓の外に、雨を流すために取り付けられた斜めの縁は、猫二匹が並んでは渡れないくらい狭いが、他に歩けるような道もない。節々に、配水管を留める鉄製の輪がとりつけられ、そこに爪をかけ、かろうじて上れるような、辺鄙な道だ。
 なぜわざわざそんな所を歩いていたのか、自分でもよくはわからない。なにか気になる音が聞こえたか――多分そんな、他愛ない理由だった。
 良くもなく、悪くもない空の色。頭上を覆う灰色の薄いカーテンが、わずかに朱色に染まる、そんな時間の出来事だった。

「こんにちは、猫さん。あなたのお名前は?」

 彼女は窓のすぐそばまで近づき、二回りも身体の大きい自分を見上げて、そう言った。
 その奇妙な生き物は、やはりというか、人の言葉を話した。それでは彼女は、人間なのだろうか。自分が知らないだけで、この世界には当然のごとく存在していただけのことなのかもしれなかった。
 認識を改め、その小さな人間を見つめる。
 人間というものは、我々が言葉を理解していないと思いがちだが、そんなことはない。まれにこうして話しかけてくる輩がいるが、それも独り言に近い内容であったり、心底話が通じると信じている者は皆無だ。
 この小さな人間も、その類に違いないだろうが、気まぐれに、返事をしてみた。

「名前はない」

 我々が理解をしているのとは逆に、人間が猫の言葉を理解することはない。表情や雰囲気から、我々の気持ちを察することもあるが、ほとんど勘のような、意思の疎通とはほど遠いものだ。

「言ったところで、わからないだろうがな」

 無駄だとわかりつつも付け加えた言葉に、その小さな人間は、わずかに首を傾げた。人が、驚いたときや、なにかおかしいと感じたときによくする仕草だった。
 言葉がわからないからだろう――と興味を失い、どこか他の場所へ向かおうと背を向けると、窓をコンコンと叩く音が聞こえ、それに声が続く。

「わかるよ、あなたの言葉」

 ガラスを通しても、その細い声は、はっきりと耳に届いた。
 驚き、振り返ってもう一度その小さな人間を見つめる。

「名前、忘れちゃったんだね」

 そして……なぜだかわからないが、彼女は悲しそうな顔をした。

「本当にわかるのか?」
「うん、なんとなくだけど。あなたこそ、私の言葉……聞こえるの?」
「意味がわからない。おまえはしゃべっているのに、聞こえないと思うのか?」

 そして、今度は笑う。
 思えば人間の少女は、些細なことでくるくると表情を変え、扱いづらかったな――と昔を思い出した。

 昔? 自分は以前に、人と暮らしていただろうか?
 明確に思い出せるのは、今日のように大した目的もなく街をうろついている、自分の姿だけだ。それは遙か彼方の出来事のように、霞がかかっている。本当にそんな事実があったか、自信をもって、そうだとは言えなかった。

「なにをしてるの?」

 その声に、はっと視線を戻す。

「探しものだ」

 とっさに口から出たのは、それが真実だったからだろうか? しかし、どうしても見つけなくてはならない、という思いはない。せいぜいが、時々思い出したように辺りを見回しながら歩くだけだ。
 そもそも、自分がなにを探しているのかさえ、わかっていないというのに。

「なにを探してるの?」

 彼女は構わずに続けた。

「質問が多いな。そんなこと、どうでも良いだろう?」
「……そうかもしれないね」

 また、悲しそうな顔。

「覚えてないんだ。だから、答えられない」

 仕方なしにそう言うと、彼女は微笑んだ。

「そっか。それなら、しかたないね」

 その小さな人間からの質問が多かったせいで聞けなかったが、こちらとしても質問は山ほどある。その最たるものは、単純で明快だ。

「おまえはいったい、なんなんだ?」

 窓越しに顔を近づけると、真剣な眼差しを向け、彼女が口を開く。

「私は……」


***


 そこまで言葉にしたところで、口籠もってしまう。
 私はいったいなんなんだろう? フォーニという名の、音の妖精? それとも、アリエッタ=フィーネ?

 まっすぐに私を見つめる視線から、目を逸らす。同時に、背後でドアの閉まる音がした。クリスが帰って来たのが、それだけでわかる。もう、二年以上もこの生活は続いていた。
 猫さんのことを思い出して急いで振り返る。興味がなくなったのか、こちらに尾を向け、どこかの塀に飛び移ろうとしている後ろ姿が見えた。その猫は、痩せすぎて、脇にはうっすらと骨が浮き出ていた。

「またね」

 声が聞こえたのだろうか、しなやかな跳躍の寸前に、耳が一度だけ、ピクっと動く。

「何か言った?」

 すぐ後ろで、タオルを片手に、クリスが不思議そうにこちらを見ている。

「あ……ううん、なんでもない」

 クリスはそれ以上は聞かずにベッドに腰を下ろした。軽く弾みをつけ、窓際の指定席から飛び降りる。すう――と身体が浮くような感覚に包まれ、ふわりとクリスの膝の上に着地した。

「手紙はちゃんと出した?」

 クリスは、いつものように軽く微笑んでから、手にしたタオルを横に置いた。

「大丈夫だって。今まで一度だって、忘れたことないんだから」
「私との約束はよく忘れるのにね」

 昨日、食後にもう一度アンサンブルをする約束をしたのに、クリスが寝てしまったことに対する当てつけだ。

「だから、それはごめんって……朝も言ったじゃないか」

 困ったように言い訳をするクリスに、つい笑ってしまう。

「じゃあ、今からアンサンブルしよ」

 呆れたように私を見て、それからクリスは口を開きかけたが、それよりも先に、私は否定の言葉を口にする。

「なんてね、嘘だよ。昨日だって、アンサンブルできなかったわけじゃないし。ちゃんと来週まで待つから」

 苦笑いを浮かべ、クリスは「ありがとう」と言い、夕食の準備をするためにベッドから立ち上がる。
 そんなクリスの背中を見つめ、この幸せな時間が、あとどれくらい残されているのかと、何度も、何度も考えていた。時折、あの痩せた猫さんの顔が、頭に浮かんでは、消えた。


 次の朝、着替えをすませて学院に向かおうとするクリスに、ひとつお願いをした。

「この窓、少しだけ開けておいて欲しいんだけど」
「どうして?」
「少しは空気を入れ換えないと、じめじめっとした部屋になっちゃうでしょ?」
「窓から雨が入ってくるほうが、大変そうだけど」

 男の子にしてはほっそりとした眉をひそめ、クリスがじっと私を見つめる。

「だいじょうぶ、今日は雨も弱いから」

 クリスは私と一緒に窓の外を見つめ、それから「そうだね」と言って、私の身長と同じくらいの隙間を開けてくれた。

「落ちないようにね」

 爽やかな風を羽に受け、私はゆっくりと浮き上がった。


***


 今日は、どこをどう歩いただろう?
 代わり映えのしない街。空は相変わらず薄暗く、太陽が見えないのが少し残念だった。

 昨日、あの小さな人間に答えたように、自分はなにかを探している。きっとそのなにかを見れば、すぐにでもわかるような気がする。ただ、今そのなにかが無くて、困っているわけでもなく、気ままなものだった。
 忘れてしまうようなものなら、思い出すまで放っておいても構わない。
 昨日までは、なにかを探していることすら忘れていた。それだけのことだ。

 しかし――今は少しだけ、その探し物が気になる。人間と話すのも久しぶりだったからか、いつもは忘れてしまうような些細なことが、心のどこかにひっかかっている。
 一声鳴いて、頭上を見上げた。
 時間は、昨日よりも少し早いくらいだっただろうか。空と一緒に目に入った建物は、あの小さな人間がいた場所だった。

「あ、来てくれたんだ」

 窓の前まで行くと、待っていたのか、彼女は羽をパタパタと揺らし、嬉しそうに笑顔を浮かべた。今日は、窓が頭と同じくらいの幅だけ、開いている。

「たまたま立ち寄っただけだ。それに、昨日の答えも聞いていなかったからな」
「あー、そのことね。それより……」

 窓の隙間をくぐり抜け、小さな人間がこちらに来ようとしたため、二、三歩下がる。それに気づき、ゆっくりと彼女も後ろに下がった。

「それより、お腹……すいてない?」

 敵意がないことを見せるためか、彼女はさらに後ろに下がり、窓際の端に立った。
 言われるまでは特に空いていた気はしなかったが、そういえば、今日はまだなにも食べていない。

「だいじょうぶだよ。ほら、こっちにおいで」

 どう答えて良いのか迷っていると、彼女はくすくすと少女特有の笑い方をして、そこから部屋に向かって飛び降りた。
 反射的に、その動きを目で追う。獲物を捕らえにかかるときと同じように身体が低くなる。辺りに他の生き物の気配がないかを確認し、そっとその後を追った。

 だが――。
 ガン、という音とともに、彼女の声が聞こえた。

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