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#5 三人目のマリア


 手にしたタクトをゆっくりと譜面台の上に置き、部屋を満たしたフォルテールの音が静まるまで、わずかな時間、目を閉じる。彼にかける第一声は、誉め言葉ではないだろう。しかし、迷いながらも模索するその音色は、評価されるべきかもしれない。
 だから私は、閉じたときと同じようにゆっくりと目を開け、楽譜を閉じた。

「よろしい。今日はここまで」

 時刻は、十七時をわずかに越えた頃だった。学生の個人レッスンをすべて終えた後の時間は、こうして不肖の弟子のために費やされる。一応、助講師の研修という形をとってはいるが、やっていることは学生時代とあまり変わらない。
 目の前のその不肖の弟子、アーシノ・アルティエーレは、疲れたような笑みを浮かべていた。演奏に対する評価をくださないのは今日に限ったことではなかったが、なにも言われないのも、気にかかるらしい。

「あまり上手く弾けませんでしたか?」
「技術は確かに上達したな」
「それは、ほとんど毎日こうして直接コーデル先生の手ほどきを受けてますからね」

 自嘲っぽく、彼は微笑む。

「なにが足りないんでしょうか?」

 すぐに真剣な表情を浮かべ、アーシノはそう続けた。答えはすでに出ている。
 彼に足りないのは、自覚だ。

「なぜ、君はフォルテールを弾いているのか」

 かつて、師が私にそう言った。その言葉で私は悩み、そしてついに答えを見つけることができた。それが今の私を作り、生かしている。

「そこにフォルテールがあるから……じゃ、駄目ですよね」
「その言葉には、君の真実が含まれていないからな」

 放課後のレッスン室を後にし、私達は講師に用意された個室へ戻った。講義やレッスンの前準備をするための部屋だったが、それにしては仰々しいといつも思わされる。キッチンやロッカー、そして大きめな机は、一講師のためのものというよりは、学院長やそれなりの地位をもった者にふさわしい。もっとも、学院長の私室を知っている身としては、この部屋は控えめであると言わなければならないが。

「お茶をいれますね」

 アーシノは、キッチンに常備されているセイロンの葉の入った缶を手に取りながらそう言った。蓋を開けてすぐ、かすかな葉の匂いが部屋に漂う。備品なのだから私が特に気にすることもないが、それにしてもフォルテールの講師は恵まれているな、と考えた。
 慣れた手つきで、アーシノはカップを温める準備を始めている。それを横目で眺めながら、彼のことを、考えていた。
 あまり優秀だったとは言えないが、とりあえずピオーヴァ音楽学院の卒業を果たしたアーシノは、そのまま私の助講師として勤めることになった。受け持ちの生徒がそのまま講師の下につくことはよくあることだったが、今までは受け持ってきた生徒の数が少なかったために、一人でこなしてきた。しかし、リセルシアという学院にとって特別な生徒を預かることになり、学院長からの指示が出たのだった。私としてはリセルシアを特別扱いするつもりは全くなかったのだが、ちょうどその年の卒業生であるアーシノが、未だに未熟であり、かつ教えることもたくさん残っていたために、こうして助講師として迎え入れたというわけだった。
 たしかに、雑務を任せられる者が下についたのは良かった。だが、毎日のようにフォルテールの面倒を見ることになり、この半年というもの、一向に仕事が楽になったという感じはしなかった。その選択をしたのは自分であり、楽しんでもいたが。

「おまたせしました、先生」
「ありがとう。では、いただこうか」

 来客用のソファーに向かい合うように座り、一口紅茶をすすった。季節は夏へと移り変わっていたが、ピオーヴァは、この国では比較的穏やかな気候をしている。それに加え、室内はひんやりとしていて、暖かいミルクティーが心地良かった。

「それで、見つかりそうなのか?」

 一息つき、アーシノにそう尋ねてみる。

「まだ、なんとも言えませんね」

 歯切れ悪くそう答え、話を逸らすためか、アーシノは残った紅茶を一気に飲み干した。

「今は、悩むといい。私にも経験がある」
「へえ、コーデル先生にもそんなことが?」
「心底驚いた、というような顔だな」
「今の先生を見ていると、そうは思えなかったんで」

 茶化すような口調でそう言うと、アーシノは軽く肩をすくめた。それに合わせるように、私も笑いながら続ける。

「ほう。君にはいったい、私がどう見えてるんだ?」
「悩むことなんて、なさそうに見えますね。やることもすべてわかっていて、自分で決めた通りにこなす人……もちろんこれは、誉め言葉のつもりで言ってるんですけど」

 不遜な言い方だと思ったのか、最後にそう付け加える。

「あまり誉め言葉には聞こえないが、まあいいだろう」
「でも、同じ経験って? 学生時代の話ですか?」
「ああ。もっとも私の場合、卒業する前にその類の悩みは解決していたが」
「この仕事を紹介してくれたのも、そうしてもかまわないって言ってくれたのも、全部コーデル先生だったと記憶していますが?」
「ああ、一応これでも講師としてのプライドというものがあってね――不肖の弟子を一人前に育てるまでは、放り出せない性分なんだ」

 つまるところこれが私の本音で間違いなかったのだが、アーシノもそれは承知の上で、必要以上に気にかけずにこの問題について話すことができる。それくらいには、この問題に対する二人の認識も、近づいてきているのだろう。個人レッスンが始まってから卒業までの二年、そして、卒業してからの約半年――思えばこんな会話ばかりを続けてきたせいかもしれない。

「ま……感謝してますよ」

 しばらく黙ったままだったアーシノは、かすかに笑みを浮かべた。

「感謝だけかな?」
「尊敬もしてますよ」
「ほう。君が、私を?」
「感謝し、尊敬してます。心から」
「それは殊勝なことだ」

 いつもの軽口につきあってそう答えると、一瞬彼の顔がくもった気がした。しかしすぐにいつもの皮肉っぽい笑みを浮かべ、再び肩をすくめる。

「まだ、なにか足りないですか?」
「なにがだ?」
「感謝の言葉ですよ。これでも結構真剣に言ってるつもりだったんですけど、冗談で流されてしまいましたからね」

 意外にも、あれで真剣なつもりだったのだろう。いや、アーシノらしいといえば、らしいか。

「いや、それで充分だ。それでも私には、できすぎた言葉かもしれないしな」
「もう一つだけ付け加えるのなら」
「ん? なんだ?」
「愛は尊敬から始まるんですよ」

 ――本音か軽口か。
 普段から冗談めいて話すのは、こんな時、それを隠すための彼なりの処世術なんだろう。もっともそれが、あまりにも見え透いていて、私には微笑ましくすら感じられた。

「それは、口説いているのかな?」
「どっちだと思いますか?」

 だから彼は、どちらにもとれるように、そう言った。
 だから私は、私にとって都合の良いように、こう答える。

「君にはまだ、早いな。十年後に期待している」
「それは、失礼しました」

 深々と礼をして、アーシノは完璧な笑みを浮かべた。

「さて、今日は帰るとしようか」


***


 廊下に出ると、コーデル先生はなにかに気づいてはっと立ち止まった。

「すまない。レッスン室に忘れ物をしたらしい」
「忘れ物?」

 胸のあたりに手を当て、ため息をつく。

「胸ポケットに入れていたはずのペンが、見あたらない。練習中に使ったのは覚えているから、多分そこだろう。すまないが、鍵を貸してもらえるかな」
「なんならつきあいましょうか? 落としたんなら、一人より二人のほうが探しやすいでしょう」
「いや、時間ももう遅い。君は帰るといい」
「尊敬する先生のためなら、そのくらいなんともありませんよ」

 さっきの借りを返すようにそう言うと、コーデル先生は笑いながら答えた。

「ならその言葉に甘え、存分に働いてもらおうか」

 俺が手伝うまでもなく、レッスン室に戻ってすぐにペンは見つかった。譜面台の上に置き忘れていただけらしい。そのまま部屋を出ようとすると、突然ドアが外から開かれた。
 こんな時間に誰が? と思って立ち止まる。ほぼ同時に小さな人影が、開け放たれたドアからするりと中へ入ってきた。

「こんにちは。コーデルは、いるかしら?」

 穏やかな口調でそう言うと、少女はかわいらしく首を傾げた。俺より少し年は下だろうか? 小柄で、あどけない笑みを浮かべて立っている姿は、まるでこの学院の生徒のように見えたが……しかし、コーデル?

「あ、いた。お久しぶり、コーデル」

 ドアの近くにいたコーデル先生をすぐに見つけ、彼女は軽く手を振った。久しぶり、と言うのなら知り合いに間違いはないんだろうが、コーデル先生を呼び捨てするなんて、どんな関係なんだろうか。
 すぐになんらかの返事をするものだとばかり思っていたが、コーデル先生は、じっと、食い入るようにその少女を見つめ、押し黙っている。

「……先生?」

 にこにことしている少女とは対照的に、その表情は硬い。突然の事態に二人を見比べながら黙っていると、やがて、先生はぽつりと言った。

「マリア先輩……なぜ、ここに?」
「たまたま近くに立ち寄ったから、あなたの顔を見ていこうと思って。どうしたの? そんな顔して」

 先生の口調からは、警戒するような、また、驚くような響きが感じられた。だが、まったく物怖じしている様子もなく、マリア先輩と呼ばれた少女は、無邪気に微笑んでいる。いや、少女――と言うわけにはいかないのか。
 コーデル先生よりも年が上なら……少なくとも三十才は越えていることになる。しかし、まるでそうは思えないほどに、彼女は若く、そして少女のように純粋に見えた。

「たまたま、近くに立ち寄ったんですか?」

 一語一語、確認するように先生は続けた。口調は、相変わらずだ。

「ええ。でも、ずいぶんあなたも変わったわね。ちょっとびっくりしちゃった」

 低く、不穏ですらある先生の声とは違い、小鳥のさえずるような、高く澄んだ声で無邪気に彼女は答える。

「……あなたは、変わっていませんね。あれから、十五年も経っているというのに」
「ふふ。よく言われるわ。それで、こちらは?」

 そして、マリアと呼ばれた女性は、俺のほうを見てまた首を傾げた。あまりに自然な動作だったから気にかからなかったが、そうした仕草のひとつをとっても、本当に、まだうら若い乙女のようだった。

「あ……俺は、コーデル先生の助講師で……」
「そんなことよりも、あなたは、なぜ、ここに来たんですか?」

 澄んだ瞳に見つめられ、少し戸惑いながらも自己紹介をしようとしたが、それをかき消すように先生が彼女を問いつめた。

「あら、紹介もしてくれないの? いいわよ、自分でするから」

 気にした様子もなく、彼女はくるりとこちらを向くと、優雅に一礼して、俺の手を取った。急に握られた手を思わず払いのけそうになったが、それよりも早く彼女は言った。

「私はマリア・ローレン。コーデルが学生の頃に、あなたと同じ、ここで助講師をやっていたの」
「は……はあ」
「あなたは?」
「俺は……アーシノ・アルティエーレ……です」
「よろしく、アーシノ」
「よ……よろしく、お願いします。ローレンさん」
「マリアでいいわ」
「わかりました、マリアさん」

 友好の証だったのか、握っていた手を上下に軽く降り、そっと手を離してそのままコーデル先生に向き直った。その、柔らかな手の感触に、思わず名残惜しさを感じる。
 それにしても――マリア、か。

「先輩……あなたは、いったい」

 終始、彼女のペースでことが進み、全く要領がつかめない。それに、普段からマイペースなコーデル先生がここまで振り回されるのを見るのは、初めてのことだった。
 自分よりもマイペースな人は、案外苦手なのかな? なんてことを考えていたが――。

「ところで、あの人は?」

 しかし、続く彼女の言葉で、それが間違いだと気づかされた。

「今はおられません」

 低く、冷たい声だった。
 おそらく、初めて見る、コーデル先生の怒った顔。
 やる気がない生徒を叱るときとは、全く違う。

「そう」

 しかしマリアさんは、何事もなかったかのように残念そうに眉をひそめただけだった。

「いたら、どうするおつもりなんですか?」
「うそ。知ってたわ、あの人がいないこと」

 茶目っ気たっぷりに舌を出し、悪びれずに彼女は笑った。

「そうですか。特に用もないようなので、それなら私は失礼します」

 振り返ると、そこにはいつもと変わらない先生がいた。いや……いつもより、少し表情が硬い。

「あら、もう帰るの?」
「どのみちそのつもりでしたから」
「ねえ、コーデル」
「……はい?」
「明日もまた、来ていいかしら」
「断る権限は、私にはないようなので、ご自由に」
「ありがとう、コーデル」
「ただし、レッスン中は生徒の邪魔にもなりますので――」
「わかってるわ。なら、またこの時間でいいかしら」
「……どうぞ」

 話を早く切り上げたいからか、それだけ答え、コーデル先生はドアから外へと出ていった。取り残された俺は、どうしたら良いか完全に迷ってしまう。
 そして、こちらを興味深そうに見ていたマリアさんと視線が合った。

「あの……俺は、どうしたらいいんでしょうか? 鍵を閉めて、守衛室に持っていかなければならないんですが」
「もう少し、お話をしていかない? もう、時間が遅いかしら」
「まだ、大丈夫だとは思いますけど」

 彼女の提案は、こちらも望むところだった。コーデル先生のさっきの態度、そして、この目の前のマリアと名乗る女性。その両方が、驚きと戸惑いと同じくらい、今の俺の心を占めていた。


***


 鼓動は早鐘のように速く、息苦しく、思わず立ち止まって呼吸を整えなくてはならなかった。

 ――マリア。

 その名前は、遠い過去の名前であるはずだった。しかし彼女は、あの頃と変わらない顔――あの頃と変わらない口調で、こともなげに私を過去へと引きずり込んだ。
 穏やかだった、あの日。

「……なぜ、いまになって?」

 追憶に引きずられそうになるのを必死で抑え、現在に意識を集中させるため、今この瞬間の疑問を、言葉として口にした。しかし、続く思いは、すでに過去のものか、現在のものかはわからなかった。

 ――なぜ、彼女は戻ってきたんだろう?


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