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#4 愚かな詩人


 初めて出会った時、彼女は歌っていた。
 人の溢れる室内でさえ、様々な雑音や歌声に混ざって、彼女ひとりの声が耳まで届いてくる。決して大きな声ではなかった。しかし、和音を構成する一部である、主旋律でもないアルトの歌声だけが、はっきりと聞こえた。

 知り合いにチェナーコロに呼ばれたはずが、遅れるとの伝言もなく、ひとり待たされていた。歌声を聞いたのは、暇をもてあましていた、そんな時だった。
 確かに美しい声だった。ピオーヴァ音楽学院には、ただ歌声の美しいだけの生徒なら数え切れないほどいる。しかし、中でも際だってその存在を主張するその声に、軽い興味を覚えた。その声の持ち主の美しさにも。
 彼女が歌い始めてから一曲が終わるまで、俺はそのチェナーコロの中心から目をそらすことが出来ないでいた。そしてその後も、ずっと。
 この部屋の支配者は、彼女だった。歌い終わった後、彼女が動くと周りの人間が全て動いた。彼女のために飲み物を用意しようとする者。今の歌の出来を、彼女がどう思っているかを暗に聞こうと顔を覗き込む者。ピアノの前に座る者は、次に彼女がどんな曲を歌いたがっているのかを知りたがった。
 その全ての者に公平に、彼女は望むものを与えた。ある者には笑顔を、またある者にはグラスを受け取る優雅な仕草で。

「もしみなさんが疲れていないのなら、もう一曲どうかしら?」

 賛同する多くの声を当然のこととして受け止め、彼女は有名な曲名をひとつあげた。
 ピアノの奏者は、それならそらで弾けると自慢そうに彼女に告げ、楽譜を取りに行こうとした生徒をとめる。
 指揮者はいなかったが、誰もが彼女を見つめ、彼女が軽く頷くのを合図に、音楽が再び始まった。

 ファルシータ・フォーセット。
 名前と顔は知っていた。成績優秀な元生徒会長で、将来も有望視されている声楽科で一番有名な生徒。
 しかし、本当の彼女のことは何一つ知らなかった。彼女の歌声さえも、今日初めて聴いたと言って良かった。
 人がいなくなり、閑散としたチェナーコロの壁に寄り掛かりながら考えていた。

 待ち人はまだ来ない。

 手近な椅子に腰を下ろし、彼女の歌声を頭に思い浮かべる。確かに歌声は素晴らしかったが、それだけではない。
 声の質、声量、音程の正確さ。音楽記号に忠実なだけではない歌い方、声の抑揚、そこに込められた感情。俺は声楽が専門ではなかったが、全てが素晴らしい、と思った。
 だが、だからこそそれだけではない、と強く感じた。
 技術や表面的な美しさだけなら、この学院を探せば、同じくらいのレベルの生徒は確実に存在する。
 でも彼女は違う。
 彼女が歌っているときには、そんなことは思いもしなかった。ただ楽しそうに歌う彼女の横顔を、惚けたように見つめていた。
 しかし音楽の余韻が消え去り、ピアノの奏者が慎重にペダルから足を離した――その、木の触れあう軽い音と共に、何かが変化した。それは、彼女を見つめていた俺の変化であったかもしれない。もし違うのなら、彼女のなにかが変化したはずだった。
 なら、なにが変わった? という自問への答えは出ない。もちろん、彼女が他の歌い手とは違うと感じた理由とは、なんの関係もないだろう。
 ただ、楽しそうに歌う彼女の顔が目に焼き付いた。反対に歌い終わった後、楽しそうに談笑する顔はすでに忘れてしまった。
 そして、彼女は違うんだと、ぼんやりと思った。

 憶測というよりも、ただの妄想に近い物思いを断ち切り、時計、そして窓の外へと視線を移す。あと五分待って来なかったら帰ろう。待っているのは、それほど親しい友人でもなかった。突然アンサンブルが始まらなかったら、もっと前にチェナーコロを出ていただろう。あと五分、と決めたのも取りやめ部屋を出ようとすると、それを見計らったかのようにドアが開いた。

「あら、お帰りになるんですか?」

 柔らかなアルトの声は、さっき聞いた歌声そのままに耳に響いた。

「人を待ってたんだが、どうやらすっぽかされたらしいので」
「ああ、やっぱり」

 納得したように頷く、ただそれだけの仕草さえ絵になる。顔の造形だけではない美しさがそこにはあった。出会ったばかりの人間にそんな感想を抱くなんて、自分でもおかしいと思ったが、その真実を認めるのにそれほど抵抗はなかった。

「アンサンブルに参加しないから、そうなんじゃないかって思ってたんです」
「フォルテールもなかったから、仕方がなかったんです」

 とくに意識はしていなかったが、自然に口調は礼儀正しいものになっていた。女性を口説く時には意識して丁寧な言葉を使うように心がけていたが、それとも違い、自分でも言った後に気づくくらいに、自然に口から出てきた。

「フォルテール科の方だったんですか……それは残念。今日はピアノ科と声楽科の方しかいなかったから。フォルテールの音色が加わったら、もっと良くなったのに」
「俺はそんなに上手く弾けないんで、邪魔をしなくて良かったと思いますよ」

 彼女の歌を聞いた後では、そんな言葉しかでない。

「それは聞いてみないとわかりませんね」
「残念ながら、謙遜じゃないんです」

 謙遜だったら、どんなに良かっただろうか。
 真面目にフォルテールの練習をしてこなかったことを、わずかに後悔した。二年以上の歳月を無為に過ごしてきたことを。
 フォルテール科の生徒がピオーヴァ音楽学院を卒業するためには、ある試験に合格しなければならない。フォルテールと歌との協奏。そのアンサンブルで名だたる音楽家の審査を突破しなければならない。この卒業試験が、それからの音楽家としての人生を左右するともいわれている。
 だからフォルテール科の三年はこの時期、歌い手のパートナーを見つけることに奔走する。そして残念ながら、俺はまだパートナーを決めることができないでいた。
 あのままチェナーコロに残っていなかったら、彼女とこんな風に話すこともなかっただろうし、ましてや彼女がパートナーになる可能性もなかっただろう。だからこそ口にすることがはばかられた誘いの言葉が、意外にも彼女の口からこぼれた。

「もしよろしければ、一度合わせてみませんか? いつでも構わないので」

 断りの言葉が喉もとまで出たが、それよりも先に彼女は続けて言った。

「あ……それよりもまず、確認しないといけませんでしたね。卒業発表のパートナーはもう決まっているんですか?」

 その質問に対して、ただ首を横に振る。

「良かった。私はファルシータ・フォーセット。ファルでいいですよ」

 差し出された手は、ひんやりとしていたが、想像よりも柔らかくはなかった。

「俺は……アーシノ」
「あら? あなたがアーシノさん?」

 かろうじて名前を告げると、小首を傾げ、聞き返された。

「ごめんなさい。あなたのお友達から、今日はここに来られなくなったって伝言を預かってたの」
「え?」
「歌に夢中になって、忘れてました」

 屈託もなく彼女は笑った。
 それが、ファルシータ・フォーセットとの出会いだった。
 俺が崇拝した、三人目の女性だった。


***


 ――らしくもない。
 滅多にない緊張をしながら、フォルテールを挟んでファルさんと向かい合っていた。
 彼女と話してからちょうど二日後。あきれるくらいに簡単に話は進んだ。廊下で偶然出会い、今時間があるのなら、と聞かれ、あると答えたらそのまま練習室へ来ることになった。
 一度合わせてみたい、というのは社交辞令ではなかったらしい。

「二人とも知ってる曲の方が良いかな?」
「できれば」

 恥ずかしい思いはしたくなかった。ファルさんが作ったという曲を初見で弾ける自信は全くない。かといって、自分で作った曲は見せられるほどの出来でもなかった。
 ならなぜ俺はここに来た?

「そんなに緊張しなくて良いですよ」

 見透かされたことに対して、怒りはなかった。もし彼女以外の女生徒にそんな風に言われたら、不機嫌になったかもしれない。もしくは、もう少し彼女の声に同情の気配が感じられたのなら、もっと臆していただろう。

「そういうのって、わかりますか?」

 そのどちらでもなく、自分の情けなさを認める妙な諦めが口をついて出た。認められたい、という気持ちもあるにはあったが、それよりもまず、自分という人間の本質を隠せないのだと、どこかで悟っていた。

「ええ。でも、楽しくやりましょう。アーシノさんの音が聞きたいだけなんです。試したりするためじゃないんです」

 ファルさんの言葉には、無条件で信じたくなるようなところがあった。だから俺は、逃げ出しもせず、虚勢を張ったりもせず、静かにフォルテールの鍵盤に指をかけた。

 コーデル先生に何百回も練習させられた曲だけあって、指はスムーズに動いた。そして、端で聴いているよりも彼女の声が、はっきりと聞こえた。いつもは鍵盤を指で追うのに精一杯だったが、今日は余裕があった。ふと顔を上げると、楽しそうに歌うファルさんの顔が間近にある。心から歌うことを楽しんでいる、そんな顔に見えた。

 そして、彼女の声がかすれるように消えていき、フォルテールから和音の残滓が抜けきるまでの時間、彼女の顔をじっと見つめる。
 しかし――

「どうしました? アーシノさん?」

 変化はなかった。
 歌っているときと同じ――ひょっとしたら、歌う前も――人生を謳歌する者の笑みを湛えている。
 その質問は無視して、逆に疑問をぶつけた。

「俺のフォルテールは、どうですか? はっきり言って、上手くないってのは自分でもわかっているんです。でも……」
「でも、聞きたいですか?」

 まるで、そうした質疑をあらかじめ想定していたかのように、淀みのない声でいらえがある。

「……ええ。聞きたいですね」
「わかりました」

 柔らかな物腰で、ゆっくりと彼女は肯く。優しげな笑顔とは裏腹に、彼女は真実を告げるだろう。世辞の類の言葉はない。恐れはあるが、知りたいという欲求にはかなわなかった。

「あなたは、フォルテールが好きですか?」

 一瞬の迷いもなく、はっきりとファルさんはそう言った。これは質問ではない。
 嫌いですね、と断定されたも同じだ。

「……嫌いですよ」
「なら、なぜフォルテール科に?」
「わかるでしょう? そうするしかなかったんですよ」
「アーシノ・アルティエーレ」

 一語一語、区切るように彼女は俺の名前を呟いた。

「アルティエーレというのは……ひょっとして、アルティエーレ家の?」
「ええ……そういうことです。爵位もないし、それほど有名な家でもないんですが……」

 その名は、百年以上前の旧体制の遺物だ。多少広い家に住み、多少の贅沢を許されるだけの、ただの人間に過ぎない。
 だからといって、無駄に卑下するつもりは毛頭無い。その名に価値を認める者がいるのなら、利用はするし、ふさわしい態度も取ろう。
 ただし今は、そんな虚勢とは無縁だった。

「フォルテールを弾くことができて、貴族でもある……素晴らしいことじゃない」
「でも俺は……それを望んでいないんです」

 しかし貴族の本質は、個の意思など意に介さないほど、尊大で、揺るぎなかった。
 フォルテールを弾くことの出来る子息がいる、というステータスをわざわざ捨てることなどありえない。
 ――ではなにをしたかったのか?
 そこまで弱さをさらけだすつもりはなかった。

「ま……それでも、あなたとこうしてアンサンブルをすることができたし、今は良かったと思ってますよ」

 美しい女性がいた。歌声が素晴らしく、興味を覚えた。卒業演奏のパートナーの候補として、試しに一度、アンサンブルをした。
 ……ただそれだけだ。いつもなら甘い言葉でその気にさせるくらいのことはしているはずだった。しかし彼女に限り、今になってようやくそんな軽口をたたけるようになった。
 雰囲気に呑まれてしまった、というのもある。

「ファルさんも、ひょっとして貴族ですか?」
「私? いえ、違いますよ」
「そうですか? でも、物腰とか態度とか、そう思わせるなにかが、あなたにはあると思いますよ」
「……そうですか」

 もう少し喜ぶか、ひょっとしたら顔を赤らめるくらいの効果があるかと思っていたが……。

「私は、違いますよ」

 俯きながら、ファルさんは首を横に振った。

「さ、もう一度合わせてみましょう」

 まるではぐらかすように、彼女はその場を離れ、戻ってきた時には楽譜を手に持っていた。

「フォルテール、好きになったんでしょう? それなら、私の曲でも合わせましょう」
「良いんですか? 俺で」
「こんな言い方は失礼かも知れませんが、まだ決まったわけじゃありません。色々な人と合わせて、それから決めたいんです」

 胸のペンダントをたぐり寄せ、彼女は笑顔で言った。

「私にとって音楽は、とても大切なものなんです。だから、絶対に妥協はできません」
「それでも、俺と合わせてくれるんですか?」
「ええ、そうです」

 もう一つだけ、質問をしたかったが、できなかった。
 なぜ、フォルテールを嫌いだと言った俺と?


***


「クリス・ヴェルティン、ってあなたのお友達?」

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