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#3 妖精の本



『その妖精は、飛ぶことができなかった』

 アリエッタは、ページをぱらぱらと捲っていた手を止めた。それほど真面目に読んでいたわけではなかったが、その短編小説の挿し絵になっていた小さくてかわいい妖精の絵と合わせて、なにかが彼女の気を引いた。
 その妖精は淡く光る小さな羽をもっていて、それまで読んできたどの妖精とも似ていなかった。アリエッタはページをさかのぼり、他の短編に収められた妖精の挿し絵を確かめた。そして、それがこのお話の根幹にあるテーマなのだとすぐに気がついた。

「……どんな妖精なんだろう?」

 アリエッタは、一人そう呟き、次の文を読み始めた。妖精の話を集めた短編集の中頃、彼女の中で妖精という存在が固まりつつあったとき、その短編が紛れ込んできた。
 人には見えない世界。感じることのできない世界。今よりももっと昔、魔力で世界が満たされていた頃、確かに妖精は存在していたのだった。数は少ないが、時折彼等を見ることのできた人間が、それに名前を与え、その存在を世界に定着させた。
 他の小説では、おおむねそんな風にして話が進んでいた。
 しかしその短編は、妖精達だけの暮らす世界の、一人の妖精『ファータ』のことをただひたすらに綴る物語だった。

 アリエッタは一端本を閉じ、パンの焼ける香ばしい匂いのするオーブンへと近づいた。そしてまだ焼き上がるまでには時間がありそうだ、と考え、時計を確認する。

「あと、三十分くらいかな」

 彼女の待つ人達、クリスとトルティニタの練習が終わるのも、ちょうどその頃だろう。それに合わせて焼き始めたのだから、当然だった。すぐに焼き上がったパンを持っていけるようにカゴだけ用意し、アリエッタは再びオーブンの前に置いた椅子に腰を降ろす。そして、さきほどのページをほどなくして見つけ、もう一度その挿し絵の妖精を見つめた。

 その妖精の名前は、ファータといった。彼女はいつでも、他の妖精達の笑いの種だった。
 幼い頃から病気がちだったファータは、身体も小さく、普通の妖精達の半分ほどの大きさの羽しかもっていなかった。
 しかしファータは、嘲けるような笑いにも、哀れむような視線にも、いつも幸せそうな笑顔を返すだけだった。彼女にはほんの少しだけ、人に誇れるものがあったからだった。
 ファータの歌声は、優れた歌い手ばかりの妖精達の中で、飛び抜けて上手いわけではなかった。ただ、彼女の友人である妖精達は、その歌声を誉め称え、よく風邪を引いてベッドに寝ている彼女に会いに来ては、その歌をせがんでいくのが常だった。ファータもそれに快く応え、かすれたような声で皆にその歌を聴かせたのだった。

 アリエッタは、そこでオーブンから漂う焦げた匂いに気づき、勢いよく立ち上がった。

「……ああ、もう」

 わずかではあったが、オーブンから取り出したパンは焦げてしまっている。アリエッタは小さな声で、また失敗したと文句を呟き、その焦げている部分を手で何度か払った。見た目はかなり悪くなったが、それで一応は食べられるようになったと判断したのか、アリエッタはそれをカゴに詰め、もう一度時計を眺めた。読みかけの小説に折り目をつけ、外へと駆けだした。

「あー、良い天気」

 口調ほどゆったりはしていない歩調で歩きながら、アリエッタは眩しそうに空を見上げた。夏を間近に控えた空気の中を早足で進んでいると、しっとりと汗がその額ににじんでくる。石畳の歩道のすぐ側を車が何台か通り過ぎていく。休日のせいでそれほど車の数も多くはなかったが、タイヤが巻き上げる細かい砂の埃からパンを守るようにアリエッタは上半身をかがめた。道路の反対側に一度視線を向け、クリス達の待つ音楽教室への残りわずかな道を軽く走った。

「こんにちは」

 アリエッタはノックもせずにドアを開け、中へと入る。今日は先生は来ていないとあらかじめ聞いていた。生徒はアリエッタを含め、クリスとトルティニタの三人しかいなかったし、こんな時のために家の鍵も預かっている。とはいえ、アリエッタは在籍しているだけであり、彼等と一緒に練習することは、今となってはほとんどなかった。こうして休日の夕方前、迎えに来るだけの生徒となってしまっていた。
 アリエッタはそうしたことに彼女なりのわだかまりを抱えていたが、少なくとも今は、笑顔を浮かべて歩いていた。音楽教室と銘打ってはいても個人の住居の一室を改造して作られた小さなもので、外から見る限り、ドアの近くに立て掛けられた小さな木の看板にそう書かれていなければ誰にもわかりそうにない。アリエッタは廊下を歩き、二階の目指す部屋へと向かう。
 目的のドアの前に立ち、彼女はわずかな時間、その動きを止めた。防音効果をもたせた分厚いドアをほんの少しだけ開け、中の様子を窺うように顔を近づける。そっと目を細めて部屋を覗くと、それと同時に、彼女の耳に二人の奏でる音楽が流れ込んできた。
 その音を――しばらくの間身じろぎもしないで彼女は聞き続けていた。
 その顔に浮かぶのは、感動でも、妬みでもなかった。ただひたすらに、その音を聞き取ろうとしていたに過ぎない。

「……ん? あ、今日は遅かったね」

 ふと演奏が止み、クリスが振り返った。彼はアリエッタのいるドアに背を向けていたが、その視線を感じ取ったのだろうか。
 その声に、アリエッタは驚いた風でもなく、ただおずおずと室内へと入った。

「もう演奏はいいの?」
「アルがちょっと遅かったから、暇で演奏してただけだよ」

 クリスは快活にそう答え、早速フォルテールを片づけ始めた。

「今日は遅かったじゃない。どうしたの?」

 トルティニタの方は、組み立て式の譜面立てをケースに入れるだけだったので、練習を終えると決めた時にでもすでに片づけ終えていたんだろう。真っ先にアリエッタに近づいてそう話しかけた。

「……ちょっとね」
「ん? この匂いは」

 トルティニタが、なにかに気づいたかのように意地悪な笑みを浮かべる。パンを焼いていくことはすでに周知の事実だったから、トルティニタが気づいたのは、そのパンの出来についてだった。そしてその後ろから、クリスが冗談めかして付け加えた。

「なに? また焦がしたの?」
「……またってほどじゃないよ」
「二回に一回ってとこだね」
「ほ……ほら。でも、最初の頃よりは良いんじゃない?」

 トルティニタの冗談に、クリスがすかさずフォローを入れる。それさえも恥ずかしそうに、アリエッタはうつむいた。

「あー、ごめん、嘘だって。最近は三回に一回くらいだよね」

 謝っている割にはあっけらかんとトルティニタが言い、それでアリエッタも笑顔を取り戻す。最近のこの三人の間でよく交わされるやり取りだった。
 アリエッタが突然音楽教室に通うのを止めると言い出してから、まだ数ヶ月ほどしか経っていない。そしてその日から、アリエッタの休日の過ごし方だけが少し変わった。彼等が練習している間に、ずっと好きだったパンづくりをして、ここに持って来ては三人で食べる。最近では、もう誰もアリエッタに休日の過ごし方を訊ねたりはしない。

「ま、味は良いんだよね。一個もらうよ」

 クリスは笑いながら、慣れた手つきでアリエッタの抱えたカゴからパンを一つ取り出してそのまま口に入れた。それにつられてトルティニタも一個とった。
 三人は教室の電気を消して外へ向かい、最後に玄関の鍵を閉めた。

「練習はどう? 最近はなにを練習してるの?」

 歩きながらアリエッタがそう訊ねると、クリスはトルティニタと顔を合わせ、苦々しげな表情を浮かべた。

「最近は、先生の言いつけで難しい曲ばっかりかな」
「クリスはまだいいじゃない、歌詞を覚える必要なんてないんだから」

 アリエッタは、その言葉を聞いてわずかに顔をしかめた。多分、クリスやトルティニタほど彼女を知らない者なら、絶対に気づかないような些細な変化だったが、あいにくその二人は、アリエッタのことを知りすぎていた。そしてアリエッタも、その二人が気づいたことに気づくことができるほどには、彼等のことを知っていた。

「そっか……がんばってね。私はこうやってパンを作って応援することしかできないけど」

 アリエッタは、それでも笑顔でそう言った。多分、彼女が抜けたことにより、先生は残りの二人に相応の曲を演奏させるようにしたのだろう。それだけの資格が二人にはあるのだと、アリエッタは誇らしげな思いさえ抱いていたのだが、残された二人はそうは思っていないらしかった。

「……パンづくりに飽きたら、また戻ってくれば?」
「そうだよ。アルの歌が聴けなくって、ちょっと寂しいんだから」
「またトルタは、そういうことを言う。私なんてどうせ……」

 悪戯めいた口調と言動はどうしてもやめられないものの、アリエッタへの親愛の情は隠しきれないのか、トルティニタはいきなりアリエッタに抱きついた。

「え? あ……きゃ!」
「いつでも待ってるからね」

 言いながら、トルティニタはもう一つ、パンをとった。

「でもふぁ」

 口にパンを入れたまま、トルティニタが続ける。アリエッタは注意しようかとも思ったが、それでも充分に意志の疎通がとれるのだから、と妹の行儀の悪さをとがめるのをやめた。

「焦がしちゃったのは久しぶりじゃない?」
「あ……うん。ちょっと本を読んでて」

 アリエッタが正直にそう答えると、クリスもパンを一つ取りながら話に加わった。

「そういえば、最近よく読んでるらしいね。どんなの読んでるの?」
「今日は……妖精の本、かな」
「妖精って、あの?」
「……うん」

 彼等の暮らすこの世界には、もちろん妖精は存在しない。かといって、絶対にいないという証明がなされたわけでもなかった。かつて、魔力が世界に満ちていた頃、確かにそれは存在していた。人が名を与え、その存在を認めていた時代は確かにあったのだ。語られる姿や特質は様々だったが、素晴らしい歌を歌うことや、背中の羽で空を飛ぶ姿などは、だいたい似通っていた。

「その妖精の話を集めた、短編小説なの」

 タイトルは忘れてしまったけど、とアリエッタは言い添えた。

「本当にいるのかな?」
「……いたら良いよね」

 クリスの素朴な疑問に、アリエッタはそう呟いただけだった。

 その日の夕食の間も、アリエッタは小説のことが気にかかっていた。クリスとその家族を呼んでの夕食会は、いつものように穏やかな雰囲気で終わったのだったが、あまり会話に加わろうとせずに、にこにこと笑っている時間が多かった。
 アリエッタは、クリス達が帰ったあとすぐに自分達の部屋へと戻り、その短編小説のページを開いた。それとほぼ同時にトルティニタが部屋へと戻ってくる。

「それ、面白い?」
「え? あ……うん」
「そっか。なら、邪魔しないようにピアノでも弾いてようかな」
「そうだね」

 トルティニタも悪気があるわけではなく、二人とも、それが決して邪魔になるとは思っていなかった。それきり二人はなにも話さず、それぞれがやりたいことに没頭し始める。
 ほとんど囁くような歌声と共にトルティニタがピアノを弾き始める。アリエッタは、それに誘われるようにベッドに横たわり、本の世界へと戻った。


***


 ファータは、それでも調子が良い日はよく外に出ていた。その羽は上手く機能せず、まるで人のように歩くその姿は、周りの失笑を誘わずにはいられなかった。しかしファータは、決して笑顔を崩そうとはしない。ただ、彼等が優雅に飛ぶその姿を眩しそうに見上げ、笑うのだった。

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