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雨の街の円舞曲



「今日、クリスの部屋に行ってもいい?」

 午後の実習が終わり、待ち合わせていた校舎の入り口に現れたトルタは、突然そう言った。

「どうしたの? 急に」

 僕は答える代わりに質問を返し、歩き出そうとしていた足を止める。
 この街は――国内でもっとも著名な音楽学院の建つピオーヴァは、一年中降り続ける雨のせいで、雨の街とも呼ばれている。
 滅多に傘を差す人のいないここでの生活にも、ようやく慣れてきたところだった。
 今日はいつもよりも、少しだけ雨が強い。家に着く頃には身体中雨で濡れてしまうのはわかっていたけど、なんとなく最初の一歩が踏み出せずにいたから、これを機にトルタに向き直る。

「今日、何かあったっけ」

 トルタは、僕がとぼけてそう言ったと勘違いしたのか、少しきつめの口調で続けた。

「再来週の、演奏会。フォルテールと歌でアンサンブルをやるんでしょ」
「ああ、そういえばそんなことを誰か言ってたね」
「誰かって……」
「いや、もちろん講師の誰かだったのは確かなんだけど」

 それが、作曲の講師だったのか、フォルテールの講師だったのかは、曖昧にしか覚えていない。

「まあ、もうそれは良いけど……いや、ほんとは良くないんだけど……とにかく、曲を選んだり、練習したりしないと」
「えっと……それって、僕とトルタで組むってこと?」
「当たり前でしょ。それとも、他に誰か組む予定の人でもいるの?」
「ああ、まあ……そうか。確かにいないね」

 でも……と続けたいところだったけど、結局それ以外の選択肢なんてないと気づいて、僕は反論するのをやめた。


 僕とトルタがピオーヴァ音楽学院に入学して、およそ三ヶ月が過ぎていた。
 ピオーヴァでは夏と冬の年に二回、他の学科の生徒を交えての演奏会が開かれる。その、栄えある一回目が、二週間後に迫っていた。
 演奏会の成果は、成績や単位だけでなく、後の進路に影響があるとの噂もある。これはただの演奏会ではなく、二年半後の卒業演奏――つまり、本当の意味で生徒の未来を決定しうる大事な行事の、布石だと考える生徒もいるらしい。
 らしい……と続くのは、全てアーシノから聞いただけの情報で、まだ数ヶ月しか学院に在籍していない僕にとっては、何年も後のことなんて考えられないからだった。


「じゃあ、いいよね?」

 トルタは僕の顔を覗き込みながら、明るくそう言った。それなのに、どこか彼女の声に真剣な響きが混じっているような気がして、僕はゆっくりと頷いた。

「でも」

 と、一度飲み込んだ言葉を改めて口にして続ける。ただし、さっきとは逆の意味で、トルタには聞いておかなければならないと思ったからだった。

「トルタは僕でいいの? フォルテール科には、僕よりもずっと上手い人達がたくさんいるのに」
「だってクリスとは、今までずっとアンサンブルしてきたでしょ? そっちの方が楽だし」

 トルタはそう言った後、慌てて付け加える。

「あ、もちろんクリスのフォルテールが下手だって意味じゃないよ。私だって一応卒業後のことは考えてるし、だからこそクリスと組みたいの」
「それは……ありがとう」
「どういたしまして。それで? いいのね?」
「あー、僕の部屋……だっけ」
「何度もそう言ってるでしょ」
「今日は……ちょっと。いきなりだから、部屋の掃除もしてないし」
「私は気にしないよ?」
「僕がするんだよ」
「でも、クリスの部屋がそんなに汚いなんて、想像できないんだけど。いつ行っても綺麗だって印象しかないし。あ、まさかおばさんに掃除してもらってたとか……」
「違うよ!」
「そうだよね~。おばさん、そういうところはクリスを信頼して任せてる、って感じだもん。じゃあ、なんでダメなの?」

 トルタはアルに比べて少々……というよりも、かなり強引にことを進めるところがあるけど、今日はちょっと、いつもよりも押しが強い。

「逆に聞くけど、どうして明日じゃダメなの?」
「そうやって次の日、また次の日って伸ばしていくつもりでしょ。この前の、課題の提出の時だって――」
「わかった……その件は、本当にごめん。悪かったと思ってる」
「じゃあ、いいよね」

 そんなことはしない、と言いたいところだけど、あいにく僕には前科があった。トルタは先月の課題の提出の時のことを強調して取り上げたけど、それ以前の……子どもの時まで遡って反論されたら、僕に勝ち目はない。

「変なところ、さわらないでね」
「そんなのしたことないでしょ。こっちに来てからは初めてだけど、クリスの部屋なんて、今までだって何度も行ってるんだから」
「……はいはい」

 これ以上、断る理由も思いつかなかった。
 部屋が汚れているというのは嘘だったけど、一つだけ、本当にトルタを部屋に招いてもいいか、心配な点がある。
 それは――。

「じゃ、行こっか」

 今日一番の笑顔でそう言ったトルタに、僕は曖昧な笑みを浮かべながら、わかった、と答えた。
 雨は、少し弱くなっていた。



「へえ、ここがクリスの部屋かぁ」

 先に僕だけ部屋に入って、髪や制服を拭くためのタオルを取って戻ると、トルタは何が楽しいのか、まだ玄関に入ったばかりのところで、しきりにそう言って頷いていた。

「はい、タオル」
「ん? ああ、うん。ありがと」
「そんなに珍しい? 普通の部屋だと思うけど」
「珍しいとかじゃなくて。ここがクリスの部屋なんだ~って思っただけ」
「まあ、いいけど。しっかりと拭いてね。今は夏だけど、それでも風邪を引かないとは限らないから」

 そう言いながら、部屋に入る。
 視界の端には、小さな妖精が一人――もしくは一匹、せわしなく羽を動かしながら、満面に笑みを浮かべているのがちらりと映った。

「へー、ほー。あれがトルタね~」

 これが僕の見ている幻覚でなければ、彼女は……フォーニは、音の妖精だということだ。
 トルタを部屋に呼ぶことを躊躇った、一番の原因。
 僕よりも前からこの部屋に住み着き、僕が学院の寮でもあるこの部屋に越してきて以来の、同居人。
 先に部屋に入った時に、フォーニに伝えられたのは、トルタが来た、隠れてて、の二言だけだった。

「……隠れてって言ったのに」

 背後で、まだタオルで身体を拭いているトルタには聞こえないよう、小声で抗議すると、フォーニはいつもと同じ大きさの声で、こともなげに答えた。

「大丈夫だって。トルタには聞こえないよ……たぶん」

 小さく最後に付け加えられた言葉に、慌てるとか、反論をしようとする前に、当人が部屋に入ってきてしまう。

「なんだ、やっぱり綺麗じゃない」
「クリスは気にしないみたいだけど、ほこりとかはすごいけどね。ベッドの下とか」
「何を隠してたの?」
「え? クリス、トルタに隠し事でもしてるの? それって、私にも隠し事してるってこと?」

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