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おかえりモネ 東日本大震災遺構・伝承館を訪ねて


「あの時いなかったって思いに押し潰されてきたのは誰ですか?」

実家が竜巻の被害を受けたが状況が分からず動揺する百音を落ち着かせた時に言った台詞だ。

NHK朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」の主人公永浦百音の故郷気仙沼はあの大震災に伴う津波で甚大な被害を受けた。百音の暮らしていた島も津波に襲われ、本土と分断され多大な苦しみを味わった。
百音自身は父親と高校入試の合格発表を見る為島を離れていたので直接津波を見ることは無かった。その為幼馴染の友人や妹が味わった苦しみや痛みを分かち合えず、その後ろめたさと無力感に苛まれ続けた。そして島にいられなくなり故郷を離れた。

直接体験した者としていない者の対比。
身体の痛みも心の痛みも本人でないと分からない。
これは物語のテーマの1つだ。


2021年11月初旬。私はおかえりモネロケ地巡りのため東北を訪れた。
金曜日の夜仙台に泊まり、土曜日曜で仙台→登米→気仙沼→仙台とレンタカーで周ってきた。
登米では物語前半に登場した能舞台や美しい北上川などを見た。
気仙沼では物語序盤から何度も登場し最後の場面でも登場した浜辺や本土と島をつなぐ気仙沼大島大橋など数多くのロケ地を巡った。
そして仙台へ向かう前、最後に行ったのが「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」だった。
ここはおかえりモネと直接関係はしていない。しかし震災をテーマの1つにするドラマのロケ地巡りで気仙沼へ行くうえで絶対に行こうと計画段階から考えていた。

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「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」は震災の津波被害を受けた宮城県気仙沼向洋高等学校の一部校舎をそのまま保存し、震災の記憶と教訓を後世に伝える事を目的に開設された。

当時の遺構がそのまま残されている施設と事前に調べて行った。
決して軽い気持ちで行ったわけでは無いが、当初の予定では30分程度見てから帰ろうと思っていた。しかし2時間弱の滞在になっていた。

伝承館では最初に震災時の記録映像や写真などが見られる。
今までも記録映像は何度も見たが慣れることは無い。
この日もさほど長い映像ではなかったが涙が出てしまう。

その後校舎内や体育館跡を見て回るのだが、当日は地元の中高生が震災の語り部として案内をしてくれるというので参加した。高校生の男子と中学生の女子が案内をしてくれた。
改めて衝撃的だった。
教室内に瓦礫や遠くから流れ着いた様々な物が散乱している。
3階には車が逆さになって流れ着いていた。
津波は高さ約12m、校舎の4階にまで到達していた。
震災発生時には170名近くの生徒がいたが幸いにも避難出来た。しかし学校に残っていた教職員関係者は津波から逃れる為に屋上に避難し、波が引いた後は教室で一夜を明かした。

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語り部の男子が話してくれた。
彼は当時幼稚園年長だったそうだ。
気仙沼では津波が引いた後、海面に流出した油に引火して海面に火が付き、それが燃え広がり市内でも多数の火事が発生した。
電気も無い暗い夜の空が火事の炎で赤く染まる光景は恐怖で見る事が出来なかったそうだ。
市内の火災が完全に鎮火したのは12日後だという。

おかえりモネのチーフ演出一木正江さんの文章に、
百音達の暮らす島のモデルである気仙沼大島の中学生たちは、およそ一週間物資供給の無い中プールの水をろ過するなどあらゆる手を使って島民の命を守りました。
とあった。

永浦百音はこれらの震災発生後数日を体験していないという。

しかし当たり前のことだが、苦しみはこの数日で終わった訳ではない。
このあと数十日、数か月、数年、そして今もまだ苦しみ人はいる。


東京在住の私はあの日得意先回りをしていた。
ちょうど車を停車し片足を地面に下した時に車が大きく揺れた。
誰かが車を揺らすいたずらをしているのかと思った。
周りを見るとビルが揺れ道路が波打っているように見えた。

東京でも死傷者は出ている。私がいた場所から徒歩圏内でも亡くなった方がいる。
大震災については我々も広い意味で被災者かもしれない。
しかし津波に関しては映像でしか見ていない。経験していない者だ。
そういう意味では百音の気持ちをほんの少し分かるのかもしれないとも思ったこともあった。

しかし今回気仙沼へ行って、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」に行って思ったのは「そんなもんじゃない」ということだった。

巨大地震に襲われた恐怖は少し分かる。
しかし津波に襲われた恐怖。その後の今まで普通だった生活が壊される苦しみは分からない。想像は出来るけど分からない。

番組放送中に、百音の苦しみがあまり理解出来ないというというような記事を見かけた記憶がある。
しかしあの時あの場所に居たかどうかではなく、気仙沼を始めとした被害にあった場所に住んでいる人たち全てが、私には分からない苦しみを味わった。

百音が島に戻って幼馴染や妹と再会したあとの事は物語ではほとんど触れられていない。
しかしそれからどの位の期間かは分からないけれど沢山の苦しみがあったのだと思う。
「あの時いなかった」
これはその後の長い時間がある中の最初の「あの時」なのだと改めて感じた。

もちろん永浦百音は物語に登場する架空の人物であることは分かっている。
しかしNHKの記録番組を見ていても同じような事を思っている人は沢山いる。その意味で永浦百音は非常にリアルなのだ。

私が気仙沼を訪れたのは2回目だった。
前回は2013年7月。
被災地に行くのは迷惑ではないか?
しかし日本人として見ておかなければならない。
こんな想いから震災より2年が経った夏に行ってみた。
海からかなり離れた場所に大きな漁船が打ち上げられたのは有名だった。
その場所に行ってみた。2年以上経ってもまだそこに漁船はあった。
その周りは廃墟のようだった。
建物が流され基礎だけが残った一帯。しかしその数mしか離れていないのに無事な家がある。
津波の恐ろしさ、自然がもたらす力の凄さ、ほんの少しの差で生まれる運命の違い。
そんな事を感じた事を覚えている。
今回その時と同じ場所に立ってみた。
あの時とは変わっている。しかしまだ更地も多くあった。

2013年7月といえば物語上で百音は高校3年生。
8か月後に故郷を離れる決断をすることにより物語は始まる。