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ちあきなおみ~歌姫伝説~1 1977・前篇

 二〇二〇(令和二)年十月九日夕刻、JR名古屋駅前を急ぎ足で歩く私は、なにものかに追われているかのような不安を掻き立てられていた。
 それは二一時からBS―TBSで、「魂の歌!ちあきなおみ秘蔵映像と不滅の輝き」という特別番組が放映されるからだ。
 新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化する状況下、ビジネスモデルの作り替えが徐々に加速し、テレワークが普及したこともあり、平常時に比べれば人の流れはやや少ないものの、やはり中部地方最大のターミナル駅である通称"メ―エキ"は、人々の生命の息吹で活況を呈している。
 駅構内には、待ち合わせスポットとして知られる「金の時計」が設けられ、その正面にあるジェイアール名古屋タカシマヤの一階玄関口は、今日も"デパ地下"と呼ばれる戦場へと突進する客で溢れ返っている。その群れの中から、タイムセールの戦いを勝ち抜いた赤ん坊を抱えた若い婦人が、七月に有料化されたレジ袋を両手に抱え逆行してきた。人の波に逆らったせいなのか、激闘の結果なのか、耳が柔らかいのかはわからないが、片耳に引っ掛かり宙ぶらりんになったお手製と見られるマスクを慌ててかけ直した。
 一九一八(大正七)年から世界的に猛威を振るったスペイン風邪では、日本政府は国民に注意喚起を促すため、"マスクをかけぬ命知らず!"とポスターの標語で謳ったが、今こそコロナ終息に向け一億一心、困難に立ち向かわねばならぬ!とばかり、私もすでに顔の一部となってしまったマスクに手をやり、露出していた鼻を覆いかくした。
 秋分の日から半月。季節は身体と足を前に向け、顔だけ夏を振り返りながら、前進しようか後退しようか腰が定まらず、表舞台では秋のふりをしながら舞台裏では夏を見切れないでいる。太陽は低く沈もうとし、高層ビルの隙間から射す落日の夕映えが、あかあかと物憂げな大気を輝かせ、ターミナルへ攻め入るように横断歩道を渡ってくる帰宅者集団の所在を示していた。その輝きのお裾分けにあずかろうとこっそり企んでいた私は、夕空を拝もうと顔を上げると、大名古屋ビルヂングの大きな建物が迫りくる集団を煽り立てるように、どっしりとその存在感を誇示しているようだ。ここから北へ約一里、黄昏ゆく名古屋城の、あの金色燦然たる鯱も、威風凛々と街ゆく人々を見守っていることだろう。多勢に無勢となった孤独感に支配された私は嘆息を漏らし、急ぎ足で地下街へ逃げ込んだ。
 名古屋駅には九つもの地下街があり、その中のサンロードは日本で最初にできた地下街である。そこに接続するメイチカの一角にある老舗の喫茶店は、私にとって馴染みの店だ。
 名古屋は喫茶店王国と言われ、近年では一九六八(昭和四三)年創業のコメダ珈琲が、海外、東京進出を成功させたことにより、独特のモーニング文化が脚光を浴び、広く世間に知られるようになった。その特徴は、朝の十一時までなら珈琲一杯注文すると、トーストやゆで卵、小倉あん、などが付いてくるというお得感だ。現在、名古屋在住の私は、三十年住んでいた東京から友人が来名し、「なにはさておきモーニング」などと言われると些か鼻が高い。
 客層は老若男女と幅広く、上級者は十一枚綴りからなる珈琲チケットを買い、珈琲十杯の値段で十一回モーニングを楽しむのだ。チケットを仕事の取引先や恋人にプレゼントする"名人"も多い。
 地下街は、家路を急ぐ人を誘うビアホールの呼び込みの声がこだまし、スイーツお菓子の甘い香りが漂い、地元っ子にも人気の"名古屋めし"である味噌煮込みうどん、味噌カツ、手羽先唐揚げ屋などが軒を並べる。
 そんないくつにも及ぶ誘惑をすり抜けた私は、いつものように馴染みの店へと避難すると、コロナ対策のため設けられたアルコール消毒と検温を済ませ、間隔をあけて設置された指定席へゆったりと腰を下ろした。
 昭和レトロ感ある店内の風景は、どこか自分の家にいるような寛ぎの時間を提供してくれる。気取らず、一杯一杯丁寧に煎れる珈琲は、喫茶業界の新潮流であるサードウェーブ珈琲のおしゃれなカフェスタイルの精神にも、確かに受け継がれている。心地よく響く有線放送のBGMは、Jポップを中心に、週刊ヒットランキング上位曲、話題曲、リリース前の注目曲を繰り返し耳に流し込んでくる。時代の最先端をゆくこれらの歌にも、昔、心躍らせて聴いた日本の歌謡曲の精神は息づいているだろうか・・。そんなことを考えながら、私の心は旅をしていた。琥珀色の一杯の珈琲に、カリブ海に浮かぶジャマイカの空が見える、というわけではなく、店の昭和な趣に後押しされ、現代の流行歌の向こうに、したたかな昭和歌謡への旅情をそそられるのだ。                 
                               昭和歌謡とは文字どおり昭和時代に流行ったポピュラー音楽の総称であるが、近年は若い世代に新しいと支持され、ブームとなっている。世代や趣味趣向を超え、楽しめるヒット曲がなかなか生まれないこの時代、歌謡曲のちょっと切ないメロディに親しみを覚え、わかりやすく、物語のような歌詞に、かえって斬新な印象を受けるのは当然かもしれない。
 一九六七(昭和四二)年生まれの私にとっての昭和歌謡は、七〇年代後半、山口百恵、キャンディーズ、ピンク・レディー、沢田研二といった歌手がヒット曲を連発していた頃にあたるが、当時は家でも学校でも歌を口ずさみ、虚構としての歌の世界が現実世界に混在し、歌謡曲の大波が滝のように生活のうちに打ち込まれてくる時代だった。
 大人たちはカセットテープ(当時のカーステレオはカセット主流)で歌を車の中に持ち込み、女の子たちは公園や校庭で、ピンク・レディーの振り付けを練習して歌い踊り、男の子たちはジュリー(沢田研二)の「勝手にしやがれ」(作詞・阿久悠 作曲・大野克夫)を歌い、歌唱中ソフト帽を投げるのを真似して、教室にはいつも通学帽子が飛び交っていたものだ。
 顧みれば、一九七七(昭和五二)年は、歌というものに対し、私の心の中になにか特別な火が灯された年だった。
 その導因となったのは、ちあきなおみが歌う「夜へ急ぐ人」だったのである。
                 つづく


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