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ちあきなおみ~歌姫伝説~32 断歌という覚悟

 今後、ちあきなおみの芸能界復帰はあるのであろうか。

 時折、なんの根拠もなく【ちあきなおみ復帰】とか【復帰か?】などと、ファン心理を翻弄するかのようなタイトル記事がタブロイド紙などに太文字で踊ることがあるが、こういった芸能ジャーナリズムの姿勢には、私は些か白々しさを感じる。このようなファンへの無責任な匂わせ、煽りさえも、エンターテインメントの世界とするならば、それは大きな間違いであり、ただ適当なことを書いているにすぎない、と書くしかできないのである。

 ちあきなおみ復帰問題に関しては、私はいい加減、別の角度からのフォーカスが必要だと考えている。
 結論から述べれば、ちあきなおみは復帰しないほうがいいのである。
 なぜならば、ファンの心の中のちあきなおみは、たとえば復帰したちあきなおみよりも、より劇的な存在でありつづけることができるからである。やはり大衆心理というものは、スターに対してフィクション性を求め、その姿を愛するものであろう。
 そういった意味において、国境をなくしたかのように引退・復帰を繰り返すあらゆるジャンルのスターや、過去に築いた自らをパロディ化し、フィクション性を脱ぎ捨てて、バラエティー番組などに出演し世間にすり寄ってゆく芸能人の定石を打ち破りつづけてほしいと願うのである。
 先日「週刊新潮」での取材でも述べたが、私たちがテレビの特番や週刊誌などの特集記事の中に発見するちあきなおみとは、実はちあきなおみではなく、今、不在である、言わば幻想の中の、もうひとりのちあきなおみなのである。このことは同様に"伝説の歌姫"と称される山口百恵にも当てはまることではないだろうか。
 生きながらにして、仙人のように、もう二度と私たちの目の前に姿をあらわさないことによって、ファンの心の中のフィクションは守られ、永遠のスターとなり得るのである。
 私にしてみれば、不在であるはずのちあきなおみの歌を、今こそ、真に迫って感じることができるのだ。
 人の心に残る本物の歌とは、たとえ現在の歌唱ではなくとも、十分に伝わってくるものである。そういう歌の本質が、叶わぬ復帰を完全に埋め合わせる、という副作用をもたらせ、不在であるもうひとりのちあきなおみを、より孤高な存在として完全復帰させている、という気がするのである。
 三年前に発表されたアルバム「微吟」、そして先日発売されたアルバム「残映」と、それは永きにわたる沈黙という閉ざされた世界から生々しく放たれた、歌ある復活劇なのだ。
 このドラマは、花が咲くのを待ちこがれ、花が散るのを愛惜する如く、逝く春を詠嘆する心持に似て、実際にちあきなおみが表舞台に復帰すること以上に儚くセンチメンタルに感動的であり、それが今ファンの心の中にあるちあきなおみなのだ、と私は感じるのである。

 しかし・・・・、ちあきなおみの復帰をどうしても諦められない、という声は少なくない。私は本人から直接「復帰はしない」と聞かされた身でありながら、人の気持ちというものは変わるものだ、という微かな期待がないとは言い切れまい。芸能ジャーナリズムの姿勢に苦言を呈しておきながら、いつかきっと本当に、という熱い感情が、私のやせ我慢を覆っていることも確かなのだ。
 私はいつかがあるということは幸せなことだと感じつつも、自らの煮え切らなさを恥じながら、「復帰はしない」というのは、もしかしたら、ちあきなおみの覚悟ではなかったかという想像が心に去来してくる。
 引退声明なき三十年にも及ぶ沈黙という時間の流れの中で、前記したようにその理由を百も承知しているつもりの私が、沈思黙考の末思ったのはこのことである。
 それは、ちあきなおみは、もっともっと歌いたかったはずである、という推察である。
 しかし、ちあきなおみにとって歌うという行為は、その表現限界のない世界を突き詰めてゆくがゆえに、もっとも過酷で苦しいことであり、それと同時に、もっとも自分らしく自由になれる時間でもあったはずなのだ。それは幼少の頃より歌いつづけてきた本人にしかわからない感覚であるのかもしれない。だがそうであるからこそ、自身が帰り着くところは、結局歌うことでしかない、との気持ちもあったと思うのである。
 歌手活動停止後のことであるが、ボクシングファンであるちあきなおみが、ふと呟いた言葉が私の脳裏によみがえってくる。

「ボクサーは、トレーニングや減量というあれほどまでに苦しい思いをしてまで、なぜリングに上がろうとする欲望を捨てられないのでしょうねえ・・・・」

 私はこのとき、ちあきなおみがまるで自分自身に問うているかのような印象を覚えた。そして、ちあきなおみという歌手は、ボクサーのように命懸けで戦い、歌っていたのだと思ったものである。
 しかしちあきなおみは、歌うという、欲望と言ってしまっては追いつかないであろう歌への感情を捨てるのである。これは本人にとって究極の選択であり、その選択とは、歌手の本能的欲求を考えるならば、命尽きるその日まで歌っていたい、という気持ちを断つ、もっとも耐え難い、断歌という覚悟であったのだろうと思うのである。

 そこで問題となってくるのは、ちあきなおみの人間としての生き方、精神である。これまでの歌手としての人生から、ひとりの個である人間として、絶対的である死までの残された時間枠の中で、自分自身はなにをどのように見つめてゆくのか。それは時であるのか、幸せであるのか、生命であるのか・・・・。
 ここでちあきなおみが帰したのは、心理的希求や社会的欲求に背を向け、精神的な意味合いにおいて、ひとりの女人として仏の道に入ることだった。それは出家の道ではなく、世間にあり世間に埋没せず、しかし世間から離れることもない道である。
 私は郷鍈治亡き後、ちあきなおみが一時的に住処とした神奈川県の二宮町にある邸宅に赴いた際、その和室の座卓で写経をする姿を目にしたことがある。
 これは「般若心経」の書写であるが、その目的は、成仏の思想に基づいた郷鍈治への供養である。
 現世において二度と出逢うことが叶わぬ伴侶との二魂一体に、その眼差しを向けるちあきなおみの精神世界からは、すでに歌謡界や、復帰云々という意味さえも小さく見えていたのかもしれない。

「ちあきなおみは、もういないの」

 私は幾度となく、この覚悟たる言葉を本人から聞いた。
 思うに、ちあきなおみとは、歌と心中を遂げた唯一無二の歌手である。
 そして、未だつづく沈黙は、この覚悟のあらわれであり、なにものにも屈せず、なにものにも向き合い、なにものにも筋をとおす、ちあきなおみの操であり、なにものにも揺るがすことのできない強い意志なのだ。
 しかし、その沈黙を包み支えているのは、やはり私たちの心に残る歌なのである。
 このパラドックスこそが、今、われわれが見ている、もうひとりの「ちあきなおみ」なのだという気がするのである。
               つづく
https://note.com/teichiku_note/n/nc85ed7c9016a

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