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ちあきなおみ~歌姫伝説~2 1977・後篇

 一九七七(昭和五二)年の時事を紐解いてみると、年始早々、「青酸コーラ無差別殺人事件」が発生する。
 一月四日付夕刊の「朝日新聞」に、
【毒入りコーラ殺人 拾って飲み高校生急死】
と報道され社会を震撼させる。
 仕事を終えた男女六人が、港区高輪の公衆電話ボックスの前で栓をしたコーラの普通サイズ瓶を拾う(当時は一九〇ミリリットル瓶容器全盛)。寮に帰り、六人の中で一番若かった十六歳の少年が一口飲んだところ、味覚に異常を感じて口をすすいだが、突然倒れ意識不明の状態に陥った。その後、救急車で病院に運ばれ胃洗浄などの処置を施すも、朝方死亡した。検死の結果は青酸中毒死だった、とういう事件である。
 つづけて中年男性が、同じように毒入りコーラを飲み、死亡する。さらには中学生が、赤電話台の棚に置かれたコーラを飲むことを思いとどまり、九死に一生を得る。
 事件は警察による懸命の捜査が進められるが、金銭目当てや怨恨といった手掛かりはない。ただの偶然によって一本の毒入りコーラを飲まされる事件の犠牲者が選ばれるため、もとより因果性も見出せない。
 そして二月には、「青酸チョコレート事件」が発生する。
 東京駅地下八重洲地下街で、チョコレート四十箱が発見され、一箱に一粒ずつ、致死量に達する青酸ナトリウムが検出された。忘れ物を装った青酸チョコレートの中箱の裏には、「オコレル ミニクイ ニホンシンニ テンチュウヲクタス」という犯行声明文が記されていた。
 世論はこの動機を与える内容に青酸コーラ事件を結び付け、犯人は社会的弱者の復讐、声明文に濁点がなかったことから、日本人に恨みを抱く他国の人間、はたまたそれらを盾とした、毒性を実験する組織の犯行ではないか、と解読し騒ぎ立てたが、結局関連性もわからないまま、両事件は迷宮入りとなった。

 野球界では、読売巨人軍の王貞治が、当時メジャーリーグのハンク・アーロン(前年現役引退)がベーブ・ルース(生涯通算本塁打数七一四本)を抜いて保持していた、通算本塁打記録七五五本を抜く世界新記録達成はいつかと、ファンのみならず国民の関心が集まる。
 新記録の七五六号まであと四十本で迎えたこの年、ホームランを積み重ねていく度、逆に残り十本、五本と、カウントダウン方式でそのときを待った。
 そして九月三日、とうとうその瞬間がやってくる。場所は後楽園球場(現・東京ドーム)、対ヤクルトスワローズ二三回戦、三回裏第二打席目、フルカウントで迎えた六球目を黄金の一本足打法に乗せ、流れ星が夜空を駆けるかのように滞空時間四・二秒でライトスタンドへ叩き込み、メジャーリーグ記録を上回る七五六号を達成する。
 試合後のセレモニーで、両親にカーネーションのプレートを贈ったシーンは、国民の涙を誘ったものだ。
 王貞治は、高度経済成長期を経て安定成長期へと移行した時代感情の反映でもあり、人々は新記録に逆転への夢を託し、ある世代には大いなるアメリカ、われわれ子供にとっては大いなる長嶋茂雄の前に、抗し難い歴史の転換を夢想させるまぎれもない時代のヒーローだった。

 芸能界では、当時人気絶頂にあった三人組アイドルユニット、キャンディーズが、七月十七日の日比谷野外音楽堂で開催されたコンサートのエンディング、涙ながらに詰めかけたファンに謝罪しながら、突如、解散を宣言する。
 このとき、メンバーの伊藤蘭が泣きながら叫んだ、「普通の女の子にもどりたい!」という業界への決別宣言ともとれる言葉は、芸能界だけではなく広く社会にも衝撃を与えた。
 この強行突破とも一部で言われた解散宣言でキャンディーズの人気はさらに急上昇する。
 そして翌年、一九七八(昭和五三)年四月四日、後楽園球場に五万五千人のファンを動員し、"歌謡界史上最大ショー"と謳われた解散コンサートまでの九ヶ月間、歌唱中の三人の立ち位置、いわゆるセンターポジションの変更や、ラストシングルとなった「微笑みがえし」(作詞・阿木燿子 作曲・穂口雄右)が解散支持ファンの強力な後押しもあり、初のオリコンチャート一位を獲得するという物語は、どこか現代のアイドルのモデルケースとなっていると言っていいだろう。

 競馬界では、十二月十八日、現在もなお日本中央競馬史上最高の名勝負として語り継がれるレース、「第22回有馬記念」が中山競馬場で開催された。
 東西宿命のライバル対決としてファンの注目が集まったグランプリレースは、予想どおり、"天馬"と呼ばれたトウショウボーイと、関西のプライドである"流星の貴公子"と異名をとるテンポイントのマッチレースとなる。
 これまでの戦績は、トウショウボーイの四勝一敗。前年、四歳馬の実力はトウショウボーイが明らかに上位だったが、五歳になってからのテンポイントは勝星を重ね、不屈の五歳馬へと変貌を遂げている。テンポイントはこのレースを最後に引退するトウショウボーイに、ここまで先着はしたが勝つことはできず、最後のチャンスが到来していた。
 ファン投票一位はテンポイント、トウショウボーイは前年の一位から二番人気へと王座を明け渡している。
 距離二五〇〇メートル、ゲートが開きスタートすると、やはりトウショウボーイ、テンポイントの二頭が飛び出す。
 第一周第四コーナーをまわると、先頭を走るトウショウボーイを追いテンポイントがジリジリとあがってくる。前方で両馬がデッドヒートを繰り広げ早くも一騎打ちの様相を呈する。
 正面スタンド前を通過すると、テンポイントの手綱を握る鹿戸明はトウショウボーイの内を衝きプレッシャーをかけてゆく。一方、武邦彦はトウショウボーイをさらに内側に寄せ、テンポイントを引き摺る走りでペースを譲らない。     両者の駆け引きが相まって、両雄競り合うまま向こう正面中間から第三コーナーへ入ると、トウショウボーイが一馬身リードする。どうしても前に出ることができない鹿戸明はテンポイントを一旦下げ、今度は外側から狙う追い込み策を敢行しトウショウボーイに並びかける。
 第四コーナーをまわり、観客十万人の怒涛のようなエールに迎えられて中山の直線に両馬が入ってくると、満を持したかのように、二頭を射程距離に入れて走ってきた三番人気のグリーングラスが突っ込んでくる。陽のあたらない坂道を歩いてきた鹿戸明は、魂が飛び散るようなムチを入れる。それを受けて立つ、花形ジョッキー武邦彦。
 結果、執念で勝るテンポイントが一等でゴール板前を走り抜けた。
 フジテレビ盛山毅アナウンサーによる、「テンポイント 力でトウショウボーイを そしてグリーングラスをねじ伏せました!」という名実況も語り継がれている。
 そしてこの年は、八月十六日、"キング・オブ・ロックンロール"と称される、エルヴィス・プレスリーが四二歳で急死。十二月二五日には、"イギリスの喜劇王"である、チャールズ・チャップリンが八八才の生涯を閉じている。音楽、映画の分野を超越し、世界の大衆文化の様相をも変えた二大巨星の墜落は、ひとつの時代の終焉と変わり目を知らせる前兆でもあった。

 さて、日本の歌謡界ではこの年、五月二一日に発売された沢田研二の十九枚目のシングル、「勝手にしやがれ」(作詞・阿久悠 作曲・大野克夫)が大ヒットし、時代を相手役にジュリーブームが席捲する。
 この歌は、年末の音楽賞を総ナメにし、大晦日の「第19回日本レコード大賞」では大賞を獲得した。このときのテレビ視聴率は、レコード大賞歴代最高の五〇・八%(ビデオリサーチ調べ)を記録している。沢田研二はまさにテレビ時代の申し子として歌謡界の帝王に君臨することとなる。
 ここで注目したいのは、翌年発売された山口百恵の代表作とも言える「プレイバックPart2」(作詞・阿木燿子 作曲・宇崎竜童)と、同年、これまでの音楽シーンを根底から覆すセンスで衝撃のデビューを飾ったサザンオールスターズのその曲、「勝手にシンドバット」(作詞・作曲・桑田佳祐)の二曲である。「プレイバックPart2」は「勝手にしやがれ」の歌詞を受けてのアンサーソングとなっていることと、一方、「勝手にシンドバット」は「勝手にしやがれ」と、社会現象となる爆発的人気でミリオンセラー(一九七七年六月十日発売)となったピンク・レディーの「渚のシンドバット」(作詞・阿久悠 作曲・都倉俊一)のタイトルを組み合わせたものとされている。
 このような事柄からも、当時の歌謡界は生き馬の目を抜くようなせめぎ合いはあったにせよ、そのときのヒット曲という"点"を堂々と極彩色の"線"で繋いでゆくという優雅さがあったと思えるのである。その艶やかな張りのよさは、パクリなどという貧相な発想ではなく、後取りして時代を先取りしてゆく弾力を秘めた戦略というものであった。

 こうして時事を振り返ってみると、一九七七年とは、今日にも伝説として語り継がれる出来事が、確かな生命力をもって時代に息づいていたと言えるだろう。

 このような時代風景にある中、一九七七年十二月三一日、ブラウン管に映し出されたある衝撃的な光景が、その後私の心の中に強烈な残像を刻みつけたのだった。
               つづく


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