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ちあきなおみ~歌姫伝説~18 私の途・後篇

 東京キッドブラザースは、寺山修司横尾忠則らと演劇実験室・天井桟敷を結成し、退団した東由多加が、一九六八(昭和四三)年に創立した日本のミュージカル劇団である。
 
 キッドは"愛と連帯"を綱領に掲げ、青春の怒りと哀しみと歓びを描き、歌を武器として、アメリカやヨーロッパなどにも進出した。
 一九七〇年代後半から一九九〇年代初頭にかけて、劇団としては圧倒的な観客動員数を誇り、日本武道館日生劇場後楽園大テント新宿コマ劇場などで公演を実現させ、当時、全国ツアーを行うほどの人気劇団だった。

 私は中学三年の時、キッドの公演を生で目にし、そのに魂を強く射抜かれ、客席で身体が打ち震えてくるのを抑えることができなかった。蓋しそれは十五歳ながらも、身体の内に秘めた抑圧された影のような塊を、今、自分の立ち位置からは吐き出し切れない悲しみ、そして自らに向けた怒りのようなものに支配されたのであろう。
「君は本気で生きているのか」
 私はキッドにそう問いかけられていたのだ。
その問題提起は、私の人生の嚆矢濫觴を意味するものだったのだ。
 そして私は、時速二〇〇キロで、歌を求め、東京キッドブラザースへと走り出した。

 そして、一九八七(昭和六二)年、私は重い扉を開けようと、東京キッドブラザースの門を叩いた。
 時の日本はバブル景気絶頂期にあり、地上では巨額な資金を投じて、大都市再開発の動きが活況を呈していた。そんな時代に私は、はらじゅくアッシュビルの地下にあった、キッドの稽古場兼劇場「WORKSHOP」で、ひとりの男と対峙していた。
 キッドへ研究生として入団してからの日々は、その男、演出家・東由多加との戦いの時間だった。

東由多加


 東由多加は七〇年安保闘争期、全共闘の学生運動、アングラ演劇、反戦フォーク、ロック、フラワーチルドレンといった、既成の文化に対抗するカウンターカルチャーが全盛にあった過激な季節の真っ只中で、キッドに個人的聖戦と言っていいほどの情熱を傾け、時代が移り変わろうとも、頑なまでにを歌いつづけていた。戦うべき敵も場所も持たない、"新人類"と呼ばれたわれわれ十代、二十代の若者の前に、東由多加は最強の大人として立ちはだかり、本気で怒り、叱り、激しく罵倒した。これまでの人生で身にまとったレッテルや枝葉をもぎ取られ、丸裸にされ、存在自体を否定された。人間とはそこまでされなければ、本当の自分との出逢い、自分の内的必然性との出逢いはできないものなのだ。
 
 東由多加の演劇論は、真の自分を曝け出すことだった。研究生はレッスン以外に、毎日日記を付け、他者をとおして自分を知るために、一週間に一冊の本を読むことが義務として課せられた。そして、ひとつの台詞、ひとつの歌を、自分という存在のすべてを賭けて、「日常」「劇場」として、自分の言葉で語り、歌うのだ、と。

「君たちが赤だと信じ込まされてきた嘘を、俺は君たちに青だと言い張ってやる」
 東由多加のこの言葉に、現実世界を嘘くさいと感じていた私も、どこかでふいに顔を出す新人類の感性というものが抵抗をさせたが、演出助手を務める過程において、赤が本当に青に見えてくるようになったのである。
 その演出とは、役者にテクニックである演技や歌を一切要求せず、ひたすらに「もっとこい、もっと生きろ、お前はこんなものじゃない」と、その人間の本当の姿と可能性を引き出すのだ。それは、東由多加の尋常ならぬ人間への愛が源となっている。キッドの歌は、その愛のための戦いだった。下田逸郎加藤和彦かまやつひろし井上堯之吉田拓郎谷村新司小椋佳、キッドのミュージカルに参加したミュージシャンは、劇場の扉を開けた人間だけしか聴くことのない愛のための歌を書き、その歌をキッドは歌ってきたのである。
 そのため、劇団四季のような洗練されたミュージカルを正統派とし、東京キッドブラザースはアマチュアリズムにみちた異端である、との評価も下された。ただ私は、商業化されたエンターテインメントよりも、本気たるキッドの、「歌は愛のための戦いだ」という思想に哲学を感じていたのだった。

東京キッドブラザース ステージ写真


 以下の文は、私が夢中で語り、ちあきなおみの頷きを得た話である。

「君たちは歌いながら、絶対に泣きますよ」
 キッド創立二十周年を迎えるにあたり、記念公演の舞台に研究生も出演することになった。その稽古で、キッドのミュージカルナンバーの歌詞を、ただメロディに乗せて歌っていた私たちに、東由多加は暗示めいた予言をした。歌って泣くということが解せなかった私には、思ってもみないチャンスでもあった。
 しかしその直後、われわれ研究生は横っ面を殴打されたのだ。
「お前たち、歌をなめるなよ!」
 この怒声にわれわれは狼狽し、返す言葉もなく立ち尽くしていた。
「歌を、歌を!」
 東由多加はなおも怒りをあらわにして叫び、われわれの前に泣き崩れた。それに呼応するように、稽古場にいた柴田恭兵が力強い笑みを漏らした。

「東由多加よ、あなたは今日の舞台で、十年前と寸分違わぬことをやっている。両手を差しのべ、顔をひきつらせ、絶唱し、愛と連帯と革命を歌っている。あなたは本当に手を差しのべ、絶唱すれば、愛と連帯が獲得できると信じているのか。そんなことじゃ本当はなにも掴めないことぐらい、あなたはこの十年という時を通してよく知っているはずだ」

 これは写真家の篠山紀信氏が、ある雑誌で東京キッドブラザースを批判した言葉だが、そんな時代への、東由多加の涙と柴田恭兵の表情に、私は、このような世間、あるいは時代の逆風の中にありながらも、傷だらけのボクサーのようにカウンターパンチを繰り出し、今時の流行歌にはない、歌の魂を浮き彫りにしようとする"なにかやさしさのようなもの"を見たように感じたのだ。
 そしてその危ういほどに儚い幻影と、頬に受けた痛みを胸に、私はとうとうキッドの舞台に立った。
 本番で歌ったのは前章で述べた、私が中学生のときテレビで観た、キッドが「レッツゴーヤング」で歌っていた歌のようなもの、「哀しみのキッチン」というミュージカルの中の、
「ⅬIKE A HARⅮ ⅮAYS NIGHT」(作詞・東由多加 作曲・深野義和)という歌だった。 
 舞台後方で、私は両手を差しのべ、顔をひきつらせ、絶唱した。人生も夢も、この愛の歌も、舞台へ手を差しのべ返して迫ってくる観客も、センターポジションに位置する憧れの柴田恭兵の背中も、なにもかもが美しく、手が届きそうで届かず、一瞬にして儚く消えてゆくようで、私は東由多加の予言どおりに泣いてしまった。
 この、儚さを追い、その儚さに懸命になることが東由多加の言う歌で、または生きること、愛のための戦いであるというのが正解であるならば、歌って泣くという理由が、実際に私には少しわかった気がしたのだ。
 それは、失われてゆく美しきものに目を凝らしつづける、人間のセンチメンタリズムと言えよう。


 そして、この儚さをセンチメンタルに見て取る感覚を、このときまで残照のように私の心底に棲みつかせていたのは、あの伝説的存在だったのだ。
 それは現在でも、ちあきなおみとともに語り継がれゆく、もうひとりの"伝説の歌姫"たる、山口百恵という存在である。
               つづく



 


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