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ちあきなおみ~歌姫伝説~4 夜へ急ぐ人・中篇

 窓の外の景色が変わり、見慣れた風景が目の前にもどってきた。コロナ禍の影響で、通常より一時間早く閉店となる店内をそそくさと後にするOLたちを眺めやり、私はベストのポケットから機械式の懐中時計を取り出して、ちょっと時間を気にした。
 否でも応でもデジタル時代に対応していかなければならない昨今、敢えて逆行し、携帯電話の時計機能はおろか腕時計さえとおり過ぎてアナログ化してゆく私は、天下一のひねくれものと、眠狂四郎的気分で居直らせていただくとして、冷めてしまった珈琲を慌ててひと口すすった。
 今日(令和二年十月九日)は二一時からBSーTBSで、「魂の歌!ちあきなおみ秘蔵映像と不滅の輝き」という特別番組が放送されるのだ。
 引退宣言もなく、ちあきなおみがマイクを置き、フレームアウトしてからはや三十年。そのあいだ、発売されたベストアルバムはスマッシュヒットをつづけ、今なお復帰を願うファンの声は絶えない。

紅白歌合戦で、「喝采」のイントロが流れ、その姿をあらわす・・・・
日生劇場で、一夜限りのリサイタルが開催される・・・・

 そんな花咲く春の再び巡りくる時を、いったいどれだけ夢見たことだろうか。
 しかし、ちあきなおみは沈黙を貫き、未だ帰らず、である。

ちあきなおみ 沈黙の理由 (新潮社)

 そのわけを記した拙著「ちあきなおみ 沈黙の理由」(新潮社)を出版した直後ということもあり、私は妙な責任感と、まるで自分のことが放送されるとでもいうように、思い上がった緊張感に支配され、そわそわと落ち着かない念に苛まれているのだった。「1977・前篇」の冒頭で述べた、なにものかに追われているかのような不安を掻き立てられているのは、このためなのだ。
 しかし、今夜の放送を見るにあたって、どこかふてぶてしい構えをとっている自分がいることも確かだった。
 私は、ちあきなおみの最後のマネージャー兼付き人として青春時代を過ごしたが、思えば、ちあきなおみとは私にとって今でも最も怖い、唯一の師、という存在なのだ。氏を九天の高さに持ち上げ、百歩へりくだっているわけではない。郷鍈治亡き後はとかくふたりだけの時間が多く、雨につけ風につけ側に仕えていたため適度な距離感が掴めないことも多々あったが、どれだけ話をしようと、どれだけ食事を一緒にしようと、時として自宅に泊まり込むことがあろうが、私はどこか緊張していたものである。それは主従関係や雇用関係にあるといったことを超越した、私にしかわからない感覚であるのかもしれない。もし今、本人からお呼びがかかれば万難を排してでも参上し、目の前にしたら、なにを言われようと無条件に「はいっ!」と答えるだろう。
 しかし今日、一視聴者として、ちあきなおみと向き合うからには対等である、という私流の開き直りの気分があるのである。
 とは言え、やはり心中穏やかではなく、どうすれば冷静かつ客観的に画面と向き合うことができるのか、という不安が頭をもたげてきた。付き人だったがゆえに、心配性な習癖にも邪魔されているのだろう。私はひたすらに、偉大すぎる"伝説の歌姫"を前に、圧倒的不利をひっくり返す突破口を探していた。
 そのような心模様のまま、私は帰ろうと席を立つと、有線放送のBGMはシンガーソングライター・あいみょんが歌う、「裸の心」(作詞・作曲・あいみょん)を耳に流し込んできた。その曲調に、どこか漂う懐かしさと新鮮さを感じ、思わずまた席に座り直した。
 私は時間を気にしながらも、ずけずけと心に訴えかけてくるあいみょんの美声に、この季節のように腰が定まらないまま珈琲を飲み干し、結局、最後まで聴き入ってから店を後にした。

 再び地上へ出ると、名古屋駅前の空はすっかり夜の気配が夕空を押し除け、星が瞬いていた。不滅の輝き・・・・。星空が照らす風景は、相変わらず帰宅を急ぐ人々の流れがつづいていた。この人たちの中にも、今夜これから本腰を入れてちあきなおみと対峙する強者がいるだろう。そのような色合いに世間を染めてしまうのは、四十年以上も前に出逢った一曲の歌、「夜へ急ぐ人」だったのだ、との感慨に浸りつつ、私は強者らしからぬ及び腰で帰路を急いだ。
 家へ着くと、私は自分の部屋へ直行した。夕食を取ってゆっくり風呂に浸かり、などという時間も余裕もない。昼間の疲れで眠くなってしまったら、ちあきなおみとの対決に支障をきたしてしまう。追い込まれた精神状態の中、起死回生への一手も思いつかず、己の往生際の悪さを恥じながらテレビの前にしゃがみ込み、覚悟を決めた。
 すべての世界が、二十センチの距離を隔ててスマホの中に存在するSNS時代、メディアとしての役割が変わりつつあるテレビとがっぷり四つに組むことなど、最近はニュース番組以外にはないな、と思いを巡らしていると、時計はとうとう二一時を指した。
               つづく







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