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ちあきなおみ~歌姫伝説~11 ちあきなおみの途・前篇

 ちあきなおみ、本名・瀬川三恵子(以下・三恵子)は、一九四七(昭和二二)年九月十七日、東京は板橋区に三人姉妹の三女として生を受ける。
 ちなみに昭和二二年は、日本において第一次ベビーブームがはじまった年である。第二次世界大戦終結後、平和の旗の下に世界各国でも同種の現象が起こったが、日本では昭和二四年までの三年間で、約八百万人の出生数が記録されている。少子化の一途を辿る現在の日本の出生数からしてみれば、約三倍の数である。
 この期間に生まれた人々は、いわゆる団塊世代と呼ばれ、戦争を知らない子供たちとして、
その後の日本の文化、思想を再構築し、日本経済における〝神武景気〟〝岩戸景気〟〝オリンピック景気〟〝いざなぎ景気〟〝バブル景気〟などの好景気をすべて経験することになる世代である。なにもせず、甘えの中で、未来の時を夢見ながらぬくぬくと育った、とも言われるこの世代の中に三恵子も属するわけである。
 だが、三恵子はいつも、失われた時を求めて夢見ていたのである。

 一九五二(昭和二七)年。
 横浜、横須賀、立川・・・・。米軍キャンプ内のクラブで、花柄のワンピースのドレスを着て、タップダンスを踊り、歌う、四歳の三恵子がいる。
 母・ヨシ子は、踊りが好きだった三恵子をつれて、当時、日本交通公社で募集していた在日アメリカ進駐軍向けのタップダンサーに応募、三恵子は合格する。母親というものは、娘に自らの見果てぬ夢を託すものだ。ヨシ子は戦時下で過ごした少女時代に憧れ描いた少女像、その残像を三恵子に重ね合わせ、新しい少女像を創り上げていくことが、ただひとつの喜びだったのだ。「白鳩みえ」のステージ名で歌い踊る三恵子の姿に、ヨシ子は過去の夢の傷を癒されると同時に、三恵子の中で潜行する天才を見ていたのである。   
「ギブ・アス・ア・ソング!」
 日本に進駐したアメリカ兵が、チューインガムを噛み、コーラやビールを片手に口笛を鳴らす。ヨシ子の喜ぶ顔を見たくて、唯々諾々と歌う三恵子には、青い目をした毛むくじゃらの大男たちの言葉はわからなかったが、歌い終わると、「オー・マイフレンド!プレゼント・フォー・ユー!」と言って、ポケットから大きな手にいっぱいのチョコレートを差し出し、拍手してくれる姿がなんだか不思議な光景に思えた。わけがわからずとも、顔を真っ赤にして喜んでくれている、なにかが伝わっている。幼いながらもそう感じる三恵子には、歌は、人と人のあいだに個人的な関係性を築く魔法のようなものだった。
 三恵子にとって、歌は言葉だったのだ。
「すごい人見知りで無口な子供だったから、歌や踊りよりも、大きな身体をした外国人に会うのが怖くてたまらなかった。でも、兵隊さんは皆親切だった」とは本人が口にするところだ。
 三恵子が米軍キャンプで歌っていた時期は、サンフランシスコ講和条約が発効され、敗戦
によりアメリカを中心とした連合国(GHQ)の支配下にあった日本に、ようやく主権が認められた、一九五二年から五五(昭和三十)年の三年間である。
 世は朝鮮動乱に揺れ、日本は参戦したアメリカ軍の出撃の基地となっていたのだ。戦地に赴けば死と直面しなければならないアメリカ兵たちにとって、三恵子などのちびっ子歌手は、迫りくる暗黒の恐怖を照らす一条の光であったに違いない。
 このような情勢の中、連日のように繰り広げられる乱痴気騒ぎを前に歌う頑是ない三恵子が、いったいなにを感じ、思っていたのかは知るよしもないが、少なくとも人間が見せる表と裏のあわい、心の闇、喜び、悲しみ、生と死などといったものが混沌として胸に渦巻き、将来のちあきなおみ世界を生成する豊富な源泉となったであろうことは、決して曖昧模糊とした道標ではないという気がするのである。

 この頃、三恵子はその後の歌手人生に、大きな影響を与えることとなる場面に遭遇している。どのようないきさつで三恵子がその場にいたのかはわからないが、ちあきなおみを語るに非常に興味深い局面であることは否めない。
 それは、美空ひばりとの邂逅である。
「私がはじめて美空ひばりさんを見たのは、たしか三つか四つくらいのときだったと思うんですけども、ひばりさんが舞台の迫り上がり(劇場の舞台床面の一部が昇降する舞台設備=古賀註)というところを、わあっと、角兵衛獅子の格好をして出てくる・・・・。そこにライトがぱあっと当たりましてねえ・・・・。私は小さかったんですけど、その強烈なイメージというのが未だにあるんです。テレビの番組でひばりさんの真似をしたことがあるんですけど、そのとき、『私そんな顔しないわよ』なんて笑って言われましてね。そういう笑顔が今も目に焼き付いているんですけれども・・・・、小さい頃見たひばりさんのステージの記憶が、きっと私を歌手になりたいという気持ちにさせたんじゃないかと思います」
 これは、一九八九(平成元)年、美空ひばり逝去後、ちあきなおみがコンサートで語ったところであるが、言葉の中の「角兵衛獅子の格好」での歌とは、調べてみる限りにおいて、一九五一(昭和二六)年公開の松竹映画、嵐寛寿郎主演「鞍馬天狗 角兵衛獅子」(大曾根辰夫監督)の中で、杉作少年役を演じた当時十四歳の美空ひばりが歌う、「角兵衛獅子の唄」(作詞・西條八十 作曲・万城目正)であると思われる。
 思うに、すでにこのとき、国民的歌姫であった美空ひばりが、舞台上から放つ月光の如く煌々たる輝きは、客席から見上げる四歳の三恵子を眩しいほどに照らし、その心に澎湃として歌への熱情の波を湧き立たせたように感じられる。

 かくしてスター歌手への憧憬が根差しはじめた三恵子は、なんと五歳にして、美空ひばり、
江利チエミとともに、〝三人娘〟として人気を博していた雪村いづみを主軸とした「ゴールデン・ジャズショー」という公演で、当時、この板を踏むことが芸能人の夢とされた日本劇場(通称・日劇)のステージに立つ。
 以上、ここまでの三恵子の道程は、「ちあきなおみプロフィール」にも必ず記され、ステージでの自己紹介でも本人が時折触れていた歴史である。

 だが、この華々しい時間の流れの中で、七歳になった三恵子は、いったんここで歌に別れを告げ、スポットライトの中からその姿をフェイドアウトさせる。
 それには、家族の一身上の理由があった。
 父親との確執である。
 この頃、一家は東京から神奈川県辻堂西海岸へと引っ越しをする。本人が「ここで育った」
と口にするのはこの地だけである。三恵子が小学校二年から六年までのあいだ、人生の中で最もふつうの生活を送った時期である。
 しかし父親と、母親、二人の姉、三恵子との距離は遠くなっていった。
「お母さんと姉たちとワイワイ楽しく喋っていても、お父さんが帰ってくると、皆黙ってそれぞれの部屋へかくれるように散っていった。父親というものはかわいそうで、男は悲しいいきものだと感じた」
 これは付き人時代、本人が私に聞かせてくれたところであるが、母親っ子であった三恵子にとって、ヨシ子を苦しめる父親は、「身体の部分で似ているところがあるのも嫌だ」というくらい憎悪の的となった。
 家族がゆっくりと崩壊してゆく様を、痛ましく、傷つきながら身体に刻印させた三恵子は、その心に描いたであろう幸福という絵の中の破られた風穴、その男性という形姿をした欠落部分を、自身の生を読み解く羅針盤として見つめつづけることとなるのである。

 やがて、ひとりの少女とその人生に横たわっている愛憎は、三恵子を再びスポットライトの中へと追い立ててゆく。
               つづく

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