【800字怪談】バス旅行

 彼らを降ろしたドアは、女の後ろ髪を挟もうかという距離でいきなり閉じた。驚いて道端によける二人。バスはバックして泥の固まった空き地に尻から乗り入れ、もと来た方向へ向き直ると猛然と引き返した。
 ひどい運転手だ、と憤慨している男に女は黙って道を指さす。バス停のわずか先で舗装がとぎれそこからは未舗装の草深い道が始まっている。しばらく歩いたところで女はつぶやいた。本当にこの先に旅館があるの。男は一瞬不機嫌そうな目をしたが、すぐにいつもの優しい顔にもどり大丈夫地図の通り来てるからと答えた。念を押すように広げた手書きの地図を指さすと、ぼくらは今この辺りだからまっすぐ行ってここで曲がればすぐだろうと言う。けれど景色を囲む低い山並みはいっこうに近づいてこず、単調な眺めの中に雲雀の声だけがあかるい。女は時おり立ち止まって耳をすませた。そのたび男の表情がかすかに曇るのに女は気づいていない。ねえ人の話し声がするわ、と女は言う。辺りに人の隠れるような物陰は何もなく、あるとしても声の聞こえるような距離ではない。男がそう答えたが女は首を横に振る。あれはきっと私たちのことを言ってるのよ、こそこそして何だか感じの悪い声。早足になった女の背に向かって、男は励ますように言葉をかけた。たぶんあそこに見える白い所が旅館に折れる道だから。女は黙って歩き続ける。男は額の汗にハンカチをあて空を仰ぐ。あと少しで文字になりそうな雲が点々と風に吹きちぎれている。
 えっ何。そう男が訊きかえすと、女は何も言ってないわと答えた。ああ分かったぞ、と男は掌を打ち、草を踏む音がそう聞こえたんだよ。ほらまるで人が話してるみたいでしょうと言って草の深いところを歩いてみせた。踏み分けられた藪から飛蝗が浮かび上がり、道の外へ消えていく。女は無言で首をうなずかせ、続けて横に振った。それから男の目を見据えると「もういいのよ」と薄く笑った。


(ビーケーワン怪談大賞投稿作、2008年)

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