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【情報】『ウィッチンケア』掲載全小説、自己解説

2010年から毎年一冊、現在10号まで発行されているインディーズ文芸創作誌『ウィッチンケア』に、我妻は創刊号から毎回小説作品を寄稿しています。いずれも先日こちらで公開した「タイムマシン」と近いタイプの小説といえば、どんな様子かなんとなくイメージしていただけるでしょうか。
ここではその全10作についてのごく手短な、そしてきわめて主観的な自己解説を記してみます。もし興味を持たれた方は、11月24日(日)文学フリマ東京「ウィッチンケア書店」(ウ-47〜48)、またはアマゾンや全国書店を通じて最新号やバックナンバーを手に取っていただければ、と思います。

ウィッチンケア公式ブログ
http://witchenkare.blogspot.com/


「雨傘は雨の生徒」(創刊号、2010年4月)
もともと新潮新人賞に応募して最終選考に残った作品で、ということもあって10作中もっとも分量があります。私はフィリップ・K・ディック以外SFはほぼ読まないのですが、ディックとボリス・ヴィアンは似てるというかねてよりの持論を踏まえ、「ディックとヴィアンの間」にあるSF、みたいなのを書こうとした記憶があります。『暗闇のスキャナー』と『うたかたの日々』の結婚、は言いすぎかもしれないが、方向としてはそのようなもの。

「腐葉土の底」(第2号、2011年4月)
この小説は試し読みとしてこちらで無料公開されています。残雪みたいな小説が書きたいという切望が、初めて具体的にひとつの形を成したものだったのではと思う。「残雪みたいな小説が書きたい」気持ちはこの後も抑圧したり解放したりしながらつねに小説をかくとき私の傍にあります。

「たたずんだり」(第3号、2012年4月)
エイミー・ベンダーと残雪という、ある一角においてだけ重なるところがある(のかもしれない、もしかして)二つの名前を意識しつつ、その一角から出発して書いていったような作品。アッパーで多幸的な小説を書こうとするとき、今でもよく自分で参照する小説です。

「裸足の愛」(第4号、2013年4月)
ストーカー的な語り。隣人の髪型への「あたし」の執拗な言及。こういう小説ももっと書きたい、書かなければと思う。

「インテリ絶体絶命」(第5号、2014年4月)
私の作品の中では以前ネットプリントで配信した「天才歌人ヤマダ・ワタル」に最も近い小説で、蛭子能収や中原昌也を頂点とするいわゆる「紋切型で紋切型を殺す」系。このタイプの話は、私はかなり勢いがついているときでないと書けないので少ないのですが、両作はどちらも大変気に入っています。

「イルミネ」(第6号、2015年4月)
たぶん十作の中で最も短い小説。「元気」さと四季についてのかわいい小説。

「宇宙人は存在する」(第7号、2016年4月)
先ほどウィッチンケア掲載の拙作について「先日こちらで公開した小説「タイムマシン」と近いタイプの小説」と書きましたが、この作品が中でも特に「タイムマシン」と同系統の作品だと思います。ああいうのをもっと読みたいという方にお勧め。デヴィッド・リンチ的な不眠症的世界。

「お尻の隠れる音楽」(第8号、2017年4月)
デニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』という短編集がすごく好きで、何か書くときたびたび意識しているのですが、その意識がかなり出ている作品。また、公表してなかったり完成してない小説も含めて私は「ピエロ」という人物を時々自作に出すけれど、今作の主人公名でもあるその名前の由来はたぶんバタイユ「死者」の登場人物ですね。

「光が歩くと思ったんだもの」(第9号、2018年4月)
回転寿司のレーンに覆いつくされていく世界、という夢のようなオブセッションのようなものがあって、時々頭をよぎるのですが、そのレーンの上を運ばれていく力のようなもので書かれている小説です。

「みんなの話に出てくる姉妹」(第10号、2019年4月)
書かれた時期が近いということもあって、今年初めに同人誌『二角(青)』に寄稿した「春と昼」という小説に書き方が近いというか、同作と「姉妹」の関係にあるような作品です。それを語る口の中ですべてが起きている、というような語りにおけるフィクションの位置。そこに今の私のおもな関心があるように思う。


こうして十年間にわたって掲載された十作を眺めると、その時々の関心の推移による作風の揺れぐあいと、それでも結局のところ同じひとつの場所をぐるぐる回っているだけなのでは、というのが同時に感じられるようで我ながら面白いです。私はたぶんつねにひとつのことしか書けないし、にもかかわらず同じようには二度と書けない、という書き手なのだと思うけれど、それは多かれ少なかれ誰でもそういうものではないだろうか。

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