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我妻俊樹/腐葉土の底

 墓県の県庁所在地は墓市なのだという。市長は死人だ。わたしはにわかには信じられない気分になる。相手が父親でなければ鼻で笑ってそれ以上聞かないところだった。ところがわたしは父を子供の頃から尊敬しており、そのひびだらけの唇を漏れた息でかたられる、寝耳に水のような話を厳粛に受け止める必要があった。そうか、そうなのかと腕組みしてつぶやきながら、廊下を知らぬ間に何往復もしていたらしい。気がつくとあたりはすっかり闇につつまれ、父はとっくに襖の陰で大いびきをかいている。窓にはきれかけた街灯がちらちらと反射している。
 わたしたちの県から見れば墓県はまぼろしのように遠い土地だ。一生のうちにたずねることも、旅するところを想像することもないだろう。わたしたちの暮らしはみごとに自足しており、気晴らしの旅行にたずねるとすれば、風光明媚な南の地方と決まっているからだ。墓県は正反対の厚い雲の覆う方角にあった。しかも想像すれば意識をうしなうほどの距離がある。わたしたちのあいだでは、その荒れ果てた地形と苛烈な気候のことばかりがわずかに噂される。
 親戚に一人、かの地で郵便配達夫をしていた男がいた。だれかの葬式で一度会ったきりで、消息をひさしく聞かない男だ。父よりずっと年上のはずだったから、もう生きていないかもしれない。顔じゅうにうすよごれた白い布を巻いていて、あたかも戦傷者のような姿だった。けれど彼はだれよりも大きな声で笑いながら酒を飲んでいた。濡れた布から赤い唇が透けていた。聞いたところによると、男の手にした酒盃は何時間たってもいっこうに中身が減らなかったそうだ。さかんに口をつけているように見えたのに、あんなに酔って陽気に見えたのは演技だったということか。顔の見えない人間は芝居向きではある。どんな複雑な表情でもひとしく想像にゆだねることができる。男は日頃の仕事の苦労を自慢のようにも愚痴のようにも聞こえるトーンで話した。陰惨な容姿にもかかわらず身のこなしは優雅そのものだった。
「道はどれも身をすくめるほど狭く、いいかげんな方向をはしっていて、しかも草に膝まで覆われている。いったいどこが曲がり角なのか、草の生えかたで判断するしかないが、そんなことで分かるものか。当然知らぬ間に野原に迷いこみ、野原というのは元は線路だったものだから、やはり危険がまったくないとはいえない。使われていない、廃れた線路は、のびる先のどこかでまだ現役の鉄道と接続している可能性がある。廃線に迷いこんだ列車が、やはり野原に迷いこんだ哀れな郵便配達夫を轢き殺す。なんとも気の滅入る話だ。おれはそういう先例をいやというほど聞かされていたので、けして野原には踏みこまなかった。しかし人の眼による判断には限界がある。進退きわまったと感じたとき、おれはマッチを擦って足元の草むらに落としたものだ。たちまち火が道の部分だけを焦がしながら前方へ煙をはしらせていった。あらわれてくるのは、みじめなほど窮屈にあえぎのびていく焼け跡だが、おかげでおれはどうにか配達がつづけられるというものだ。
「おれにはいつも鞄いっぱいに詰めこまれた郵便物があり、肩が抜けるほどの重量を持ち歩いても、しばしば夜更けまで捌ききれないほどだった。こんな道ではトラックどころか、自転車でさえすぐに乗り捨てねば先には進めない。靴は一週間と持たずぼろぼろになった。膝はいつ外れてもおかしくないほど不安定にゆれてしばしば道を外れた。道は幹と幹の狭間、岩と岩の隙間を針穴を通すように息も絶え絶えにつながっていて、どこへ向かうのかといえば、紙と割り箸を貼りあわせたような粗末な小屋の前だった。手紙を差し入れる口はどこにも見当たらない。そんなものあるものか、郵便など端から受け取る気がないのだ。手近な石をのせて地面に手紙を残し、おれは元来た道を引き返してゆく。道中人とすれちがうことはめったになく、動物の気配や声にも出くわさないから、配達業務はきわめて孤独なものだ。何の励みもなく、ただ望まれない手紙を軒先に捨てるように押しつけてまわるだけの日々だ。実際それらは読まれることもなく風雨にさらされ、踏まれてちぎれ土になっていく。
「おれはたまに家の住人と会話を交わすことがあった。もちろん顔を見合すことはなく、相手は戸口を閉てきったまま独り言のふりをして話しかけてくるが、本当は退屈しているのが丸分かりだった。こちらも仕事が山積みとはいえ、ちょうど息抜きがほしいと願っていたところだ。相手の顔を立て、おれも独り言を装ってこたえてやる。戸板をへだてて聞く声は年の頃はおろか、時には性別さえわからない。姿を想像すれば霧の中に溶けこんだ登山者のように曖昧になる。声だけは耳もとでささやくようにはっきりしている。実際その唇は板一枚へだて押しつけられるように間近だったのだろう。息が板にふれる音を今もなまなましく思い出すことができる。
『このところの晴天つづきは願ってもないことだけど、おかげで裏の川がすっかり涸れたまますでに十日もたってしまったな。あの川は雨が降らないとたちまち涸れるくせに、ひと雨ふた雨あったくらいでは髪ひとすじほどの流れも戻らない。まったく、川底のむき出しの石の上で川海老やドジョウが苦しそうに跳ねまわっているよ。むごいことだが、やすやすと捕まえて食卓にのぼせられるのはありがたい。やつらは一体、なぜいつまでも死なずにぴょんぴょん跳ねているのだろうね? それが気がかりで毎日夜明けまで目は冴えわたっているし、ちょっとした物音にも背中を刺されたように布団から飛び上がってしまう始末。例の川海老の群れが跳ねながら谷をのぼってきて、とうとう我が家の玄関まで到達したかと思うと震え上がってしまう。そんな日は、昼間のうちになぜ根絶やしにしなかったものかとつくづく後悔するよ、小指に鬢をくるくる巻きつけながらね』……声は聞こえはじめたときと同じように急にとぎれ、屋根の上でカラスが一声鳴いた。
「おれは鞄を膝の上にかかえて座り直し、仕事で凝りきった肩をぐるぐるまわしながら話しはじめた。
『このあいだの雨で道がまたひとつ潰れたのだ。その道はたった一軒の家の玄関につづいているが、だからといって家が消滅してしまったわけじゃない。家は道に属してるとはいえないからね。だから無視するわけにいかないのだが、困ったことだ、どうやって土砂の裏側にまわりこめばいい? 雨がつづけば仕事が捗らず、ただでさえどの家の玄関も天国のように遠くなる。水たまりは雲の影のように自由に地面を這いまわり、突然山からすべりおりてきてはおれの足を掬いにかかる。何べんも尻餅をつき、おかげでたった数歩の距離を進むのに半日もかかった。太陽が尖った山の蔭に消えたと思うと、またひょっこり反対側から出てくる。どうも動きが奇妙だ、鏡の反射を子供が面白がるように、真横につーつーと動いているみたいに見えたよ。まったく世の中にはいろいろな見えかたがある、おれは野良犬の鼻がゴム人間の住むゴム惑星に見えたことがあるがね。……さて、土砂のむこうには寝たきりの男がひとりで住んでいる。あまりに衰えたせいで、掛け布団が葡萄の食べ滓ほどぺしゃんこになっている哀れな老いぼれだ。寝床のまわりにつねに蝶が飛びまわって花園のようだった。おれは潰れた道の手前で思案のすえ、ひとつの計画を立てた。寝たきりの男の耳にとどくほど大声で手紙を読み上げてやれば、もはや配達にむかう必要はなくなるだろうと。どのみち老いぼれの眼はかすんで文字など読めないのだから、むしろ親切でさえある。おれは開封の許可を得ようと声を張り上げて〈ということでどうですか?〉そう尋ねてみたがいつまでも返事はなかった。老人は耳が遠いのかもしれない、あるいは喉に蒲鉾でもつまらせて喋れないのだろうか? おれは道のない斜面にすがりついて顔を半ば土に埋めながらガタガタガタと小山の表面を這いまわり、ポケットには蟻の巣が溜まり、ふたたび道路に足をつけるのに十日もかかったよ。なんてひどい時間の無駄遣いだ、鞄はあいかわらずたった今膝上に降ってきたみたいにこんなに重いのに。ここで減らしていける荷物はうすっぺらな茶封筒一枚だけ、中身はどうせ家賃の督促状だろう、地主の孫はランドセルが甲羅の役目を果たしている。そのせいか、封筒の表面に亀に踏まれた跡があり、まるで濡れた消印が歩いていったようだ。地面と見分けがつかなくなるまで玄関先の雨雪にさらされ、溶けた督促状とともにこのままおれも腐葉土の底まで沈みこんで正体なく黙ってしまうのかもしれない。さまざまなみにくい幼虫たちの寝息にまじって』
 そうはいったものの、おれは土中深く埋もれたりはしなかった。地面には瘤のある木の根がひろがって身をひそめる隙などなかったし、根から毒素が噴き出して幼虫は全部死骸に変わり、何か意味ありげな配置で点滅しながら賢い暗号をかわしていた。どさどさと音をたてて木の葉が落ちてくるが、枯れ葉の時期にはまだ早い。あの山の樹木は大半が不治の細菌病で、みずからのばした枝葉の重さにろくに耐えられないありさまなのだ。時々そうして揺すり落として少しでも身軽になろうとする。いったいだれがシナリオを考えているのだろう? ときには手足が地面に落ちて小さくまとまった子供らの大騒ぎする音まで、森の奥からたのしげに聞こえてくることがあった。あんな無節操な騒がしさはおれの耳にしか歌声に聞こえないと憚りながら断言できるよ」
 話が一段落したらしい夜半過ぎには、男の顔をつつむ白布はおおかたくずれてしまっていた。爛れた両まぶたの皮がむきだしになり、今まで固く眼をつぶっていたのだとわかった。
 すべてあえかな寝言のたぐいだったのかもしれない。それでもいくばくか苦い真実がそこに含まれていたのはたしかだろう。ゆるんで肩に垂れたぼろ布からは煙草のきつい匂いがひろがった。まぶたを閉じたまま、杯を器用に戻した右手でテーブルにほおづえをついた。布がたわんで鰐のような口があらわになる。細い歯の隙間から見える口腔が血を吐いたように赤かった。
「首になってしばらくは貯金と両親の家を売って食いつないでいたものだ」
 突然男は話を再開した。まわりにはとうにだれもいなくなっていたので、声は独り言のように張りをうしなっていた。ボタンのとれかけた袖口から菜箸でつまんだ蟹のように手首がのびて、床をせわしなくまさぐっている。
「おれは墓県を出ることを決意した。生まれてから一度もよその土地の味を知らないので、まずは想像することからはじめたものだ。峠を越えるひどく急峻な鉄の階段が、アパートの廊下のつきあたりからはじまっていた。そんなことは今まで考えてもみなかったが、おれの住居は県境の山脈に半分埋めこまれるように建っていた。山の中心に沸騰する温泉の音がモーターのように床を震わせ、思えば、夢の中でもたえまなくひびいていたものだ。階段は軽快な足音をたてておれの体をはるかな頂上めがけて跳ね上げていった。途中思いがけないところに部屋の窓が光っていた。二階建てとばかり思いこんでいたボロアパートだったが、山肌がめりこむように二階より上を目隠ししていただけらしい。崖にせりだした緑色の岩にはさまれたガラス越しに女の暗い顔がこっちを見ていた。頭に帽子のように大きな貝殻をのせていたので、部屋がうすよごれた水槽のように感じられたものだ。ユーカリの大木の下にささやかな広場があり、タクシーが一台木陰に乗り捨てられているのを見た。しばし休憩をとるつもりでほこりっぽい座席にすべりこむと、そのままおれはぐっすり眠ってしまった。気がつけばタクシーは夕闇の中をぶるぶる揺れながら疾走していた。運転席には大柄な狒々が座っていて、カーラジオから聞いたことのない外国の政変のニュースが流れていた。その国の名をあれから二十年間一度も思い出したことがない。思い出しそうになると鏡とナイフをこすり合わせた音が大音量で聞こえてきて、鼻の奥で山羊の髭を燃やした匂いがする。やがて夕日の光が絶えると急停車し、狒々はおれを力づくで引きずり出して道端へ放り投げた。みごとな腕力だったよ、そして何の迷いもなかった。まわりには錆びてくずれ落ちた鉄階段の跡がころがっていた。何かに踏み潰されたものみたいに痛々しく見えた。ああいう光景が物事の境界線にはいやというほど散らばっているね、じっくり観察しようとすれば、心はおのれ自身を見うしなう。今まで走っていたはずのくねくねした道は、テールランプに照らされながら蛇のように巻き取られていくところだった。
 それから毎日おれは狒々の運転するタクシーに乗った。洞穴や平らな大岩のベッドでうなされながら目覚めると、いつでもタクシーが間近にひかえ朝日をあびて新品のように輝いていた。日暮れまで走りつづけた後はいきなりおれをドアから放り出してどこかへ行ってしまう。朝にはまた音も立てずに枕元にいる、そのくりかえしだった。車は日ごと微妙にちがうデザインなのに、乗るたびに運転手がいつも狒々だったのだが、もちろん本物の狒々だとは思わなかった。タクシーの運転手は職業柄、あるかなしかの道の消息をよく知っていた。着ぐるみにしてはよくできている、本物の毛皮を材料に使っているのかもしれない。そうではなく本当に狒々がハンドルを握っているのだと気づいたとき、怖ろしいというよりあらためて感心してしまったほどだ。道にひどくくわしいのも、人間のつくった道路じゃないからだとわかったよ。標識にはいつも割れた胡桃の絵が描いてあった。それは生存と死をともに暗示する手紙のようなものだ。信号も時々あった。色の数はバラバラで、いつも同時にすべて光っていたし、しかも一度も止まらなかった! 何しろほかに車は一台もなかったのだから止まる必要なんてないのだ。行き先のことはとくに聞かれなかったし、こちらからわざわざ切り出すこともない。われわれには通じ合う言葉がなく、ただ心が空洞のようにひとつになっていることを想像して気を紛らせるしかなかった。ほかにどんな誤魔化しかたがあったというのか。おまえは狒々と二人きりの部屋で一週間過ごしたことがあるのか? ほかに頼れるものがなく、息をすれば濃厚な獣の匂いが苦しいくらいの密室で外の景色を無言のまま眺めているのだ。同じ病院の看板が三度眼の前をよぎっても何も感じなかった。われわれはどこかへ近づいている、そういう確信が胸にあったからだ! 同じ顔の老婆を急カーブで三回撥ね、三回とも老婆は崖から転落しながら陽気に笑っていた……夕焼けのように。あの断崖の底にはこの町のみじめな暮らしがあり、死人の髪の毛と血膿をたっぷり浴びたのはおまえの小さな背中だったのだ。もちろん記憶にはかすり傷ひとつ残っていまい、何もかも一瞬のうちに起きたのだし、はじめから終わりまで一ミリにも満たない物語をいつのまにか聞かされておまえは心臓がどぶねずみのように体内をすばしこく逃げまわっているんだろう? おれには聞こえる、次々に竹垣の倒れていく音が。そこでおれのこまねずみを追っ手として差し向けようとあらかじめ切れ込みを入れてある胸にこうして手を入れると、おや、何かべつのものをつかんでしまったようだ」
 寝たふりをしていたのがばれたのだろうか? こっそり聞き耳をたてていたところをふいに「止まれ!」と詰め寄られた父は、驚きのあまり丸めた座布団から頭をビーチボールのように跳ね上げてしまった。男の金切り声がほとんど自分で想像した声のように頭の中心で聞こえたので、手ひどい一撃がくるかと身を固くしたのだがなぜか静かなもので、そのまま何ごとも起こらなかったというのだ。男の印象的な姿は細長い座敷のどちらを向いても見あたらなかった。黄ばんだ白布だけが床にだらしなく広がっているように見えたが、近づいてたしかめるとそれは布きれでさえなく、日付の変わったばかりのただの新聞紙だった。

【初出:2011年4月/ウィッチンケア第2号掲載】
※原文では「そこでおれのこまねずみを追っ手として〜」の<こまねずみ>に傍点あり

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