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《コエvol.01》 「戦争遺児」だった女性が選んだ、教育を届ける道

こんにちは!コエテコエの吉川です。
”コエ”シリーズとして、メンバーがインタビューした記事を投稿していきます。

今回は、戦争遺児であり、元特別支援学校教諭の渡辺美佐子さんに伺ったお話をご紹介します。

(左)渡辺さん・(真ん中)上田市で教員をしている久保田さん・(右)吉川


※戦争遺児:戦争で親と死別した子どものこと。



渡辺さんとの出会い


渡辺さんと出会ったのは、長野県・上田市にある山奥の小さなギャラリーだった。
20代前半の私たちが「戦争」をテーマに企画をした美術展に関心があったことのことで、立ち寄ってくださった。

美術展「止まった時代の主人公たち〜1945×2021〜


東京で教育現場に長く従事し、今は退職をしてボランティアをしているらしい。そんな話を伺っているうちに、

「私は戦争遺児です。」

と、渡辺さんは自身の人生について話し始めた。

戦争によって命を奪われた人の話は聞いたことがあるが、
遺された家族がどんな人生を歩んだのか、聞いたことがなかった。

ときに涙を浮かべながら、出会って間もない私たちに戦争を「伝えたい」という想いの溢れる姿に胸が打たれた。


「戦争遺児」に強いられた暮らし


渡辺さんは幼少期、疎開先の奄美大島で育った。4人兄妹の末っ子だった。

満州に行った父の死亡通知書が届いたのは、1947年のこと。
発疹チフスだった。当時、中国で感染症が流行し、沢山の人が日本に帰れずに戦病死したのだ。

父という大黒柱を失ってから、渡辺さんは貧しい暮らしを強いられることになった。
周囲からは冷たい言葉や目線を向けられることもあった。

優秀だった渡辺さんの兄は、町工場で住み込みで働き、定時制の高校へ進学。音楽大学への進学を目指していた姉も、その夢が絶たれてしまった。

当時は、女性が資格を取って自立するのは難しい時代だったという。

「貧困から抜け出したい、本気でそう願っていました。」
渡辺さんは、教員として人生を再スタートさせ、
その後40年にわたり、障害児教育に関わった。


入院中の子どもに、教育を届けた


渡辺さんは、学校に通うことが難しい入院中の子どもに、病院内で教育を届けることに力を注いだ。
小児病棟のベッドサイドで教えるのは全ての科目だ。
中でも、外の世界を知らない生徒が自己表現する力を養うことを目指したという。

「公園で遊びたい」と願った生徒が描いた絵

難病を持つ子どもが亡くなると、その家族の悲しみに寄り添った。
退職をした今も、病院に通いボランティアを行なっている。

私はお話を伺いながら、
どうしてそれほどに誰かのために動けるのかと思った。と同時に、

「なぜ夢を語る存在(子ども)が人生を閉じないといけないのか?」
「人生に、こんな矛盾があっちゃいけない」

そう語る渡辺さんは、
目の前の、病気によって我慢を強いられる子どもと、
困窮していた自身の子ども時代や、夢を断たれた姉や兄を重ね合わせているのではないかと感じた。

戦争で父を失い、人生のあらゆる場面で諦めることが多くあった分、
人の痛みが分かり、人に寄り添うことを使命としている方なのだろうと思った。
理不尽な理由で辛い境遇にあったとしても、その人生を悲観しない生き方は強く印象に残った。


戦争体験を語り継ぐ


渡辺さんは、姉と兄が亡くなってから戦争を「伝える」ことを始めたそうだ。

「今度、孫の6人にプレゼンをするの。」
と、自作のパワーポイントを見せてくださった。

自身の生い立ちをまとめた資料


渡辺さんの世代の方がパソコン使いこなしているのを見て、思わず驚いた。きっと分かりやすく伝えられるようにと、試行錯誤を重ねたのだろう。

「(戦争に対する考えを)孫に押し付けてしまうのではないかと心配しているけれど、考えるきっかけになればいい。」と話した。

私は、戦争について家族から深く話を聞いたことはなかった。
長崎で被爆経験のある祖母は、きっと戦争の体験が辛すぎて話せないのだと思う。

ギャラリー近くの山々

家族とでも、なかなか話しにくい「戦争」のこと。
それを語り継ごうと懸命に行動し続ける渡辺さんのエネルギーから、
「戦争を知らない」と目を逸らしてはいけないと思った。

戦争を伝えたい・伝えるべきだと感じている当事者がいるのだから、
その声に耳を傾けて、知る姿勢を忘れない自分でいたい。

(吉川)


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