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毒ガス攻撃は中国軍がやっていた。

日本は戦前から法治国家でした。
1925年に武器会議で毒ガス使用が禁止されました。
武器会議の五協定 日本は全部に調印しました。

1925年(大正14年)06月13日 朝日新聞
1925年(大正14年)06月19日 朝日新聞

しかしアメリカは上院で否決しました。

1926年(大正15昭和1年)05月29日 朝日新聞

中国は日清戦争の時から無法地帯で、支那軍は捕虜の意味を知らず、つかまえれば鼻を削ぎ、耳を削ぎ、眼をくりぬき、男性器を切って喉に詰めて殺し、なお四肢をバラバラに切り落として、それを道筋の軒先にぶら下げた。残虐性に驚いた山縣有朋は捕まったら何をされるかわからないので『潔く自決せよ』との訓示を出すほどで捕虜という概念さえない地であった。

1937年12月10日日本軍は武士道精神を大切にし、城外で降伏を待っていたが
中国の降伏拒否の回答は毒ガス攻撃だった。

1937年(昭和12年)12月10日 朝日新聞


支那軍は すでに数次に亘りホスゲン窒息性毒ガスを発射... 田上部隊前面にさく裂した毒ガス弾は猛毒性を有し ....馬〇頭が忽ち窒息戦死した。

1937年11月3日 朝日新聞

敵の無法の毒ガスの中で、日本軍の部隊長は敵兵の霊を弔い、地蔵流しをされていたそうです。なんか日本軍はのどかですね。
日本軍この頃はとっても強くって余裕があったんですね。

1937年10月20日 朝日新聞

中国軍は自分たちでおこなった戦争犯罪を日本軍がやったと世界に訴えたが国際十字のワットビル氏は日本軍は人道的と語った。

支那事変の戦闘で日本軍が野戦病院を砲撃したり毒ガスを使用して国際赤十字条約違反行為を繰り返していると支那側から訴えてきたので上海・南京各地の状況を視察し、支那側の宣伝にも拘わらず日本軍の人道的公明正大の態度には感服。と報道された。

1937年(昭和12年)11月22日 朝日新聞

アメリカが国際法を蹂躙しているのではないかと、当時の朝日新聞は報道している。

1942年(昭和17年)01月19日朝日新聞

私はうさぎ島のうさぎたちが好きなので5回以上行っていますが、うさぎ島は大久野島の別名で戦時中、日本軍が毒ガスを製造していたところになります。

アメリカは焼夷弾攻撃、原爆、毒ガスといろいろな攻撃を計画していたようです。

計画ではアメリカ軍は昭和20年11月に本土上陸し、航空機から8971トンの毒ガス弾を投下し、その後30日ごとに4984トンの毒ガス弾を投下する予定で、上陸部隊は105ミリと155ミリ榴弾砲と4.2インチ迫撃砲を装備した陸軍67大隊により毎月1400トンのガス弾を発射する計画でした。

ルール無用の戦争に天皇陛下のご聖断で終戦を迎えられたことに感謝は尽きません。


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