「表現の不自由展」にふさわしい展示物とは
金井米穀店への自称「カウンター」と「表現の不自由展」に対する抗議の違い
「表現の不自由展」に対する抗議についてよくわからないツイートをなさっている方がいらっしゃいました。
私の「表現の不自由展」に対する認識は一貫して「芸術性が足りない」に尽きます。「表現の不自由展」が問題となった「あいちトリエンナーレ」は次のような目的で開催されている国際芸術祭でした。
私は、このような「あいちトリエンナーレ」に展示された作品だけに限らず、「表現の不自由展」に展示された作品に高いレベルの芸術性があればどのような「表現の不自由」を味わった作品であるかは関係がないと考えていました。
しかしながら、「あいちトリエンナーレ」に展示された作品は、新聞紙で作ったかまくらという小学校の自由研究レベルの作品、もらった土産を展示した芸術性皆無の作品、慰安婦像というせいぜい工芸品レベルの作品であり、とても芸術作品と呼ぶにふさわしいものとは言えませんでした。その後各地で展示を繰り返しましたが、それらに展示された作品は政治的なメッセージなくして注目すら集めることができないものだけだと認識しています。
したがって、「表現の不自由展」の開催とそれに抗議する者のいずれも政治的な対立が表に出ているわけですから、表現の自由とそれに対する弾圧とい視点ではなく、自称「反差別カウンター」と彼らから「ヘイトデモ」とレッテルを貼られているデモなどと同視する視点から私は見ています。つまり、勝手に対立でも何でもしていればよく、私は深く関心を持つことはありません。
それと比較して金井米穀店に対する自称「反差別カウンター」の抗議は、すでに彼らが問題であると指摘するツイートが削除されているにもかかわらず、ほとんど政治的な影響力のない米穀店に執拗に抗議をしたヤクザの因縁とまったく変わらないような抗議活動であるから多くの者が関心を持って批判したのであると思います。
「表現の不自由展」に展示すべき作品
私が「表現の不自由展」に展示すべき作品として考えているのは、角川書店発行の「高校国語Ⅰ」に収録されていることで日本てんかん協会から削除要求を受けた筒井康隆さんの「無人警察」の原稿や、右翼からの抗議を恐れて当時連載されていた週刊SPA!への掲載を断られた小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」の「カバ焼きの日」の原稿です。いずれも高い芸術性のある作品ですし、「あいちトリエンナーレ」に展示されるレベルであるとも言えるでしょう。
また、「表現の不自由展」が訴えたい思想の方向性の作品として選ぶなら、松江市内の小中学校で閲覧制限がかかってその後に撤回されたというかなり自由な「表現の不自由」ではあるものの、「はだしのゲン」の原稿などがふさわしいと思います。
「表現の不自由展」を企画する方々に申し上げたいのですが、非常に厳しい芸術の競争の世界で浮き上がることすらできない自称「芸術家」の方の救済は止めて、もっと金をかけて高いレベルの芸術作品を展示するならばもっといい形で関心を集めるように努められてはいかがでしょうか。