見出し画像

縄文時代×STEAM教育 縄文時代は自然と共存し、日本全国で交易を行っていた?

令和6年10月16日から12月8日までの期間、東京国立博物館において『特別展「はにわ」』が開催されます。埴輪は、古墳時代につくられたものです。埴輪のように「人の形のような、土の焼き物」として、縄文時代につくられた「土偶」があります。

縄文時代とは

「古代文明」と聞いて、どの国の、どの文明を思い浮かべますか?

ひと昔前は、古代文明と言えば黄河文明、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明の4つを指していましたが、いまは、これにアンデス文明とメソアメリカ文明が加わり、「世界六大文明」と言われています。

日本の縄文時代は、これらの文明よりもずっと前、現在の調査では約17,000~16,000年前の間にはじまり、1万年以上も続いたと考えられています。

縄文時代のはじまりを「いつから」という議論は昔からあり、現在でもたしかな答えは出ていません。それは縄文時代のはじまりを「土器の出現」をもってするか、「定住」をもってするかの2つの議論で対立しているからです。

現在の研究では土器の出現の方が明らかに早く、定住はそれから約5,000年もたってからはじまったと考えられています。

世界最古の文明からの贈り物/SHIZQ(最終閲覧日:2024.09.27)

それほど古くから人の営みがあったとして、「文明」と呼ばれるほどのものが縄文時代にあったのかどうかと疑問に思う方もいるかもしれませんが、縄文時代の人々は日本国内で交易を行い、天文学に精通し、暦や芸術、加工技術など文化のレベルが高かったことが分かっています。

世界四大文明は、それぞれの農耕や牧畜を行っています。つまり、農耕や牧畜を行うために自然環境を大きく変えていたということです。一方で縄文時代の人々は森や川、海から必要なときに必要な分だけをもらい、自然と共存する暮らしを営んでいました。

また、遺跡からは狩猟を目的とした小さな武器しか出土しておらず、部族間で争った形跡は見つかっていません。

縄文時代の遺跡から見えてきたものとは

文化庁が令和3年度に行った調査によると、日本国内にある遺跡の数は472,071カ所。現在、文化財保護法によって保護対象にとなっているのは旧石器時代から江戸時代の遺跡ですが、もっとも多いのが縄文時代の遺跡で91,637カ所あります。

遺跡の種類としては「古墳・横穴」が159,953カ所ともっとも多く、「貝塚」も4,087カ所保護されています。

日本最大級の縄文時代の遺跡である青森県にある「三内丸山遺跡」は、縄文時代の前期から中期にあたる紀元前約3,900年~2,200年(現在から約5,900年前~4,200年前)の集落跡です。現在も続いている発掘調査から、縄文時代の暮らしについてさまざまなことが分かってきています。

食生活

これまでの調査によって、縄文時代には次のようなものを食べていたと考えられています。

  • 果物:野イチゴ、アケビ、野ぶどう

  • 動物:シカ、イノシシ

  • 魚 :マダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類、サケ、マス

イノシシは積雪が多い地域には生息していないため、東日本ではシカ、西日本ではイノシシの骨が多く出土しています。三内丸山遺跡ではムササビや野ウサギなどの小動物の骨が多く出土しています。

また、動物性タンパク質ばかりを食べていたわけではなく、炭水化物もたくさん食べていたことが分かっています。

一般的な水田稲作は、約3,000年前に九州北部に最初に伝わり、紀元前7世紀ごろまでに近畿地方、紀元前4世紀には本州の北端まで伝わったと考えられています。農耕が始まる前は、炭水化物としてイモ類、栗やドングリ、トチの実などが食べられていました。

ドングリやトチの実はエグ味があるためそのまま食べることができません。そのため、砕いてアクを抜いたうえで、パンやクッキーにして食べていました。この時代、土器を使った煮炊きはすでに始まっていますが、「焼く」よりも「煮る」ことが多かったと言われています。

また、三内丸山遺跡では発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなどと一緒にエゾニワトコを中心にクワやキイチゴの種が多量に出土しています。このことから果実酒が作られていた可能性があると考えられています。

交易

《黒曜石》 三内丸山遺跡センター蔵

縄文時代に日本国内で交易していたものとして、次のようなものがあります。

  • 黒曜石(産地:北海道十勝・白滝、秋田県男鹿、長野県霧ヶ峰)

  • ヒスイ(産地:新潟県糸魚川)

  • 天然のアスファルト(産地:秋田県、新潟県)

  • 琥珀(産地:岩手県久慈周辺)

北海道白滝で採れた黒曜石が海を渡り本州で発掘されていたり、新潟の糸魚川で採れたヒスイが日本各地で発掘されていたりします。

道具を修理するために使われた天然のアスファルトは、秋田県や新潟県にかけた産地から土器や貝殻を容器にして運ばれていました。そのほかにも、暖かい地方の海で採れる貝をアクセサリーにしたものが北海道で見つかっています。

これらの交易品には丸木舟が使われていた形跡があり、一度大きな集落地に集められたあと、そこを中継して各地へ運ばれていたと考えられています。

漆製品

《鉄石英・赤色顔料入り土器・漆が付着した土器》 三内丸山遺跡センター蔵

縄文時代の遺跡からは土器とともに漆製品も見つかっています。

ウルシの木は12,600年前ごろの縄文時代初期のものが発見されていて、約7500年前ごろにはウルシを使った製品が作られています。

日本最古級の漆製品として、約7500年前から7200年前のクシの破片が富山県の上久津呂中遺跡、石川県の三引遺跡から見つかっていて、これが世界でも最古級の漆製品と考えられています。このほか三内丸山遺跡からも約5500年前のものとされる赤い木皿や赤色の顔料が出土しています。

縄文時代晩期にはササで編んだカゴにウルシを塗った籃胎(らんたい)漆器なども作られているなど、縄文時代の人々が高度な技術を持っていたことが分かります。

天文学・暦

大湯環状列石

夏至や冬至を特別な日として祭祀を行う風習は、世界各地で古くから存在しています。

縄文時代の遺跡である秋田県の大湯環状列石にはふたつの環状列石(ストーンサークル)があり、それぞれの中心の石と日時計状組石が一直線になるように配置されていて、夏至と冬至の日没の方向は、この直線状とほぼ一致しています。

当時の人々は太陽の動きを意識していて、夏至や冬至を特別な日と考えていたのかもしれません。

土偶

土偶は、北は北海道から南は九州までの日本各地の縄文時代の遺跡から出土していて、その数は2万点以上とも言われています。このうち次の5点が国宝に指定されています。

土偶の大きさは数センチのものから40センチ以上のものまであります。縄文時代初期の土偶は、手のひらサイズで凹凸が少なく、かろうじて人の形ということが判断できるような大まかな作りのものも少なくありません。しかし、中期に入ると顔や手足が識別できるようになって細かな細工が施されていきます。また、このころから土偶に地域差が見られるようになり、たとえば東北地方からは眼鏡をかけたような目が特徴の「遮光器土偶」が多く出土しています。

土偶がなんのために作られたのかは、実は現在でもよくわかっていません。しかし、縄文時代のゴミ捨て場から、手や足などどこかをわざと壊した状態で見つかることが多いことから、そもそも「壊すためのもの」だった可能性もあると考えられています。特に足の一方のみを壊したものが多く、祭祀などの際に壊し、災厄などをはらうことを目的に作成されたのではないかとも言われています。

また、乳房があったり、妊婦を表現していたりなど女性像が圧倒的に多いことから、安産や多産を祈る意味があったという説や生命の再生説、お守りだったという説、壊すことで体の悪い部分の快癒を祈ったとする説などもあります。

土偶は、日本だけではなくヨーロッパ、西アジア、インド、メキシコなど世界各地で発掘されています。

世界最古の土偶はチェコ共和国で出土した旧石器時代のものとされています。ただ、この土偶は火事の形跡のある住居跡から出土しているため、土製品がたまたま素焼きになってしまったという説もあります。

さいごに

学校では「土偶」や「はにわ」についてあまり深く掘り下げて学びません。そもそも縄文時代を掘り下げて学ぶ機会があまりありません。

縄文時代の人々は自然と共存して、必要なときに必要なものだけ海や川、山などから自然の恵みを得ていました。1万年以上も前の人が確立した調理法が、少しずつ工夫を加えて現代の私たちにつながっていることを考えると感慨深いものを感じます。

また、土偶は北海道、本州、四国、九州と日本各地で出土していますが南西諸島など島しょ部からは発見されていません。

ただ、沖縄県の遺跡から青森県の亀ヶ岡式土器とみられる破片や、新潟県糸魚川産のヒスイが発掘されていて、この当時すでに全国的な交易があったと考えられています。

(koeodo事業部)

【参考】


「教育×IT」を定点観測するwebメディア【koedo】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?