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火の鳥と馬車道

 過日、微雨のなかウィーンを散策していると師が馬に乗りたいと駄々をこね、同席する羽目になった。吾が國の人力車も厭なのに、なぜ海外で馬車に乗らねばならぬのか。そもそも私は觀光が苦手である。旅館にさしこむ木漏れ日のみで觀光として勘弁いただきたい派だ。

 私は現代人よりは和装が多い暮らしをしており、この日も家紋はなかったが、茶道の稽古着で街を彷徨っていた。音樂の都というものの、どうも私にはプラハの衒いなき教会で、地元の方々が樂器を奏でている方が性にあう。音痴の私でも音こそ靈なのだとわかる。

プラハの教会にて休む天使

 おそらく生活感の差なのであろう。人が觀光を意識すれば、概して暮らしから逸れてしまう。こゝは微かな差なれども、本来は平凡な暮らしのなかから自ずと逸れていくものを觀るべきで、そこに作為が入れば、もちろん美にはならない。西欧的にまとめれば、天使が舞わないのである。

ブダペストの空に立つ靴

 その点、ブダペストには何処かホッとするものがあった。見あげれば天使の代わりに靴が干されており、火の鳥が馬車代わりになってくれそうな暗さだ。地上の人々にも天と同調した翳がある。要は、ウィーンが明る過ぎたのだと私は初めて腑におちた。希望の光を觀た途端、人生は手なりではなくなってしまう。

 先週、ギリシア人の弟子が天使に召されてしまった。突然のことである。人は亡くなったときに、どれほど愛されていたかがわかるというが、その典型的な女性であった。明日などないとおもい、今ここを生き切る。そんな当たり前のことを私におもい起こしてくださった。心よりご冥福を申しあげたい。

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