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【追悼】松岡正剛校長

過日、十離でご一緒した野郎たちで飲んでいた。
十離とは、ISIS編集学校に守破離とコースがあり、その離の十期生ということである。私が十離に入院したときは、十年前で高校教師をしていた。妙な縁が色々と重なり、私は結局、その年に職員室で定款をこっそり書き、カンボジアで起業している。十離を退院する際は、離論なるものを書くのだけれども、フラジャイルな電波のプノンペンから送った一場を昨日のように憶えている。幾度も送るが、送信し切れぬ、あの絶妙な塩梅はおもしろかった。

現地で登記した法人名は、十離のなかのお題のひとつからとった。

むこうでも妙な縁が重なり、導かれるように或る方向に流されていった時分であった。プノンペン郊外に福祉の短大を設立し、その中に茶室「臨川」も建てた。茶道の師が三千家に分かれるまえの寸法の図面をくださり、それをカンボジアの大工がいい加減な形でズラしていく。そこで幾人ものクメール人がお茶を喫み、点てた。幾度か日本人が音連れてくれたが、クメール人がお茶の喫み方を教えていて、その逆転現象をただ眺めていた。

トゥクトゥクの屋根に田舎間が乗ると知ってから、畳をプノンペンのあちらこちらに運び、ゲリラ的な茶会を西欧人も交えて、よくやっていた。抹茶のあとは、もれなく酒盛りになっていたが。十離の仲間も遊びにきてくれた。

コロナ禍とともに帰国。その周辺には、離婚と父の急逝があった。解散が決まっていたNPO法人読書普及協会の三代目理事長を継いだのも、このあたりであった。協会では、「ほんのアジール」を表沙汰にすることにした。

しかし、編集が最も活きたのは、やはり父の事業を継承するときであろう。三時間で逝ってしまったのだ。さすがに即興で編まねば、終わると感じた。まあ、なんとか父を擬くことができ、幾年か経った今でも、法人は無事である。

「心配してたんだよ」

あれはいつのことであったか。松岡校長にハグをされながら、こう耳元で囁いてもらったことがある。たしかに心配されるに値する氣まぐれぶりで十離を退院した。もうすぐ四十五歳になる。その頃には、第一子を抱いている予定だ。私が伝えるのだから、編集の「糸」にもならない程度のもので勘弁して欲しいが、この子にも松岡校長の編み方を私なりに伝えてやりたい。

鳴りやまぬそれぞれの追悼を読みながら、

合掌。

いつも心温まるサポートをまことにありがとうございます。 頂戴しましたサポートは、農福連携ならびに読書文化の普及に使わせていただいています。