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雑感:ケニアの編みバッグを買うという「貢献感」に癒しを求めて。

近所にあるこじんまりとした雑貨屋さんで、ショッピングバッグを買った。

きょうはもうこれで何度めかの「糖質制限の続かなかった日」で、おなかの底のほうからズシズシと響いてくる罪悪感にも、昨日からつづく体調の悪さにも、だいぶ気分をブルーに塗りこめられている。

もういっそということで甘めのレモンサワーを買い、公園に座って飲みながらこれを書いている。ショッピングバッグが可愛いので、これについて書きたくなったのだ。

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可愛い。
レジ袋が有料化してからずっと、レジにいくたびに「またやっちまった」とため息をついて、次は買い物袋を持って出かけるぞと念じ、次に頭が「あれ、自転車どこにとめたっけな」と考えはじめる頃にはもう忘れるの繰り返しだった。そして、自転車をどこに置いていたかも、3回に1回は忘れる。

そのお店には、はじめて入った。
「ふらっとはじめて入ったいい感じのお店」では、極力何かを買って帰ることにしている。そのお店に出会ったという偶然がもうトクベツだから、その思い出を残したいのだ。「出会い買い」は、かなりキモチイイ。ストレス発散に効果的だ。

何かお探しですか?と愛想よく店員さんに聞かれたので、その時の精一杯の社交力で「買い物に使うバッグとかを探してるんですけどー」と言ってみたものの「あっそうですかー」と何故かそれ以上の会話を望まないテンションで返され、なぜかぼくのほうが「いい匂いの店ですね」と会話を繋げようとし、それに対しても「そうですね」とそれ以上話を広げようとされなかった。なぜだ。あ、そうか、たぶんぼくの声が異様にちっちゃかったんだわ。完全にぼくのコミュニケーション能力が未入荷状態だった。

でも、ほんとに懐かしい匂いのするお店だった。なんの匂いかなと記憶を逡巡してすぐにピンと来た。最後のチャレンジとお店の人に尋ねてみると、とりあえずきょうはインドのお香ですけどもう毎日焚いてるお香のにおいがごっちゃになった匂いですね、とミもフタもないことを言われ、ノスタルジックな気持ちもごっちゃごちゃになってしまった。なんで。ひとり前のお客さんにはあんなに楽しげに喋っていたように見えたのに。なんで。

いろんな国の民族っぽい織物とか、食器とかが売られていて、このバッグはケニアと書かれたふだがついていたんだけど、これがケニアに置かれただけの別の国の企業の工場で、安い労働力としてのケニア人がつくったのか、ほんとにケニアの職人さんが手編みで作っているのかすらわからない。
でもまぁ、ケニアに縁もゆかりもないけど、縁もゆかりもない、たぶんケニアに住む誰かがつくってくれたバッグを、日本で大切に使わせてもらうという不思議に、ぼくは癒しを感じた。

想像を絶するほど捨てられているプラスチックのゴミや、それを食べて死んでいく海の生き物なんかに、少しだけ想いをとばす。

これもまた、自分を癒すためにそういうことをしている。

ひとかけらでも徳を積めたぞ、と思うことが、自分を責めてしまう夜なんかには薬草になる。ただただ、4円か5円を追加で払うことに慣れていくのではなくて、自分が世界の片隅で、ゴミをへらす、ムダな消費をへらすという地球の命題にこれから加担するぞと実感すること。「そんだけで!?」と言わずに、「そっからだよね」と言いながらそれを認めることで、この乾いたこころに、ひとしずくでも、貢献感という優しい水を満たすことができる。

きょう、入ったこともないこじんまりとした雑貨屋に入ったのは、無意識に自分のからだがそういう癒しを欲していたからだ。「他者に貢献する」という癒しを。それに素直に従い、些細でも否定しなかった自分を、きょうは褒めてやろう。甘やかしすぎか。

そういうことからで、いいじゃないか。


その雑貨屋さんがたいていたお香は、実家の、母の部屋の、タンスの匂いでした。
ごっちゃごちゃです。

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