創作
この趣味、もとい惰性で続けているnoteでも読者はいてくれるみたいで、たまに覗くと来ているリアクションが嬉しい。
先月の記事はTOMOOの記事だったのだけれど、その直後に関ジャムで紹介されたらしくアクセスも増えていた。
もうまさしく記事で言及したワシが育てた状態である。ライブ参戦が難しくなりませんように。
何がきっかけかはわからないけれど、二次創作の記事にリアクションがあった。こうして昔の記事も急に見られるときがあるみたいだ。
そんなきっかけで久しぶりに読み返してみる。
改めて見返すとなんだか義務感に駆られている文章で、散文的でまとまりのなさが気になるけれど、書いた当時と考えはそこまで変わっていないように思う。
最近は二次創作にはほとんど手をつけていない。
それはクール物のアニメやドラマを積極的に見なくなったからというのも要因の一つだと思うけれど、多分、自分の創作の熱量というものが現在そこまで向いていないからだとも思う。
最後に一万字程度の小説を書いて公開したのが4月だった。それ以降、ぽちぽち書いてはいるけれど、完全な形で投稿したことはない。
それ以降は何かと忙しさにかこつけて小説を書く時間を取れていないのが原因だと思う。正確に言うなら、取ろうとしていない。
どうも自分の趣味には熱量の波があり、その波に乗ることができる時期と、上手く乗ることができない時期が多方面に訪れる。
今は小説よりnoteの記事を書き散らすのが好きな時期だ。自分の思考や発信したいことについて、自己を通すことで表現したいらしい。
小説も根幹は同じようなものだと思っている節がある。自分の発信したいことを、小説を通して表現したい。
けれど、その気の遣い方はかなり違うと思っている。
「繊細な感受性を忘れずに」
高校の卒業アルバムの白紙ページに担任の先生が書いてくれた言葉を未だに覚えている。
当時は宝物だった友人の言葉はどこかおぼろげだけれど、なぜか小さく、細いボールペンで書かれたような字が妙に印象に残っているのだ。
自分が本当にその「繊細な感受性」を持っているかどうかはわからないけれど、一次創作でも二次創作でも、作曲でも、絵でもなんでもだ。
クリエイティブなことに真剣に取り組んだことがあるなら、この繊細ではないと良い作品は作れない。というのはなんとなく実感として感じることができると思う。
そして、その0から1を生み出して、表現するというのは並大抵の苦労ではない。
それに伴うのが繊細な感受性だ。
創作はそのギリギリの感性や感情を創作と現実で行ったり来たりしながら行う。
自分の感覚だけれど、こういうほとんど責任もない、良いものを作らなければいけないプレッシャーに苛まれることのない、記事での言葉選びはかなり気楽だ。
推敲なんてしなくても最悪いいわけだし、強い主張をする場合には下調べは必要だとは思うけれど、攻撃性のないただの日記などは、致命的な間違いがなければその言葉たちに重い責任はないように思える。
小説ではそうもいかない。一つひとつの文字、セリフ一つでも語尾一つ、接続詞一つとってもかなり気を遣う。
このキャラクターだったらこう言う。語尾はこうじゃない。
この人を呼ぶときに、やや低めに声を出す。それじゃあ、どう表現すればよいのか?
そんなことばかりを考えながら筆を進めていくのだ。
いつ聞いたのかは覚えていないのだけれど、この曲をどうしてかたまに聞くことがある。
創作におけるこだわる姿勢。この感覚に物凄く共感する。
行間とか、接続詞とか、そんな細部まで探求しても多分ほとんどの人はわからない。
もしかしたら、誰にもわかってもらえないかもしれないし、分かったところで良さは変わらないかもしれない。
けれど、そこをこだわらずにはいられない。
その繊細な感覚に飛び込むのが小説の世界だ。
一つひとつの言葉に、文字に意味をもたせるのはそういう作業である。
上手く言えないのだけれど、ギャグ的な、コミカルな小説。
もう本当の意味での適当な小説を書くのであれば、そこまで気は遣わないかもしれない。
それでも小説の中で伝えたいこと、ないし譲れないところがあると異常なほどこだわる。そして、こだわり抜かないと絶対に伝わらない。
でも実際、こだわりぬいても意図が伝わる保障なんてないし、伝わらないことがほとんどだ。
それでも最後までこだわりぬかずにはいられない。
これは本当に残念なことだと思うのだけれど、産み落とした作品は自分の子どもという表現に関して、多分本当の意味で理解できる人や共感できる人は少ないのだろう。
多分、本気で創作に向き合った人でないと、また自分の作品が自分の意図の通りに評価された経験がある人でないとわかってくれない。
大多数は「そういうもんなんだなあ」という感覚でしかない。
でも自分にはわかる。
ド素人でもわかる。
どうしようもなくわかってしまう。
自分の作品は自分のこどもなのだ。
それは誰かに介入されたり、誰かの手で汚されたりしたくない。
装飾は許せるかもしれない、ありがたい指導も許せるかもしれない。
育て方の方針で言い合うこともときにはあるだろうし、話し合いもできるだろう。
ただ、根幹の部分を変えられてしまっては、それはもう自分の作品ではなくなってしまうのだ。
その繊細な感覚を理解してもらえないままに起きたのが今回の話ならば、あり得ないと思う。
自分は作家を生業とはしてない。趣味の範囲で小説を書くことがあるだけだ。
それでも、自分の作品は自由だ。
自由に書けて、誰からも指図されず、自分の表現をとことん突き詰められるのが嬉しくて、楽しくて仕方がない。
それが冒涜によって、他人の産物とも呼べる代物になってしまっては自分の作品ではなくなってしまう……正確にはその作品に泥水ぶっかけられた感じだろうか。
労力をかけて精一杯育ててきた子が、壊されているのである。
この怒りの正体が何なのだろうと、件のことがあってからずっと考えていた。
多分、これは常識の通じない人に怒る感情とかなり似ている。あまりにも不条理な理不尽さに震えている。
犯罪者に同情の余地がない、無差別殺人とかに抱く感情と似ている。
どんな事情があったにしろ、犯罪を犯した奴が悪く、どんな言い訳をたれても許せない。
私情があっても許されないことだけれど、加えてこの同情のできなさ、あの不条理さに怒る感情と似ているというのが自分の中の仮説だ。
我が子という表現は非常に正鵠を射ている。
その我が子がいじめられ、好き勝手に体を弄り回され、泣いている子どもを取り戻して、なんとか自分の力で立てるところまで回復させただけだ。
それをして、悪者にされる行為が許されていいのだろうか。
この怒りはなんだろう。
ありえないことだ。
大げさじゃない。どんなことがあってもこんな結末が許されていいはずがない。
創作の中だけでとどめておくような結末が、こんな形で現実に起きてしまった。
数日考えた。この感情を文章にして、消してを繰り返していた。
けれど最後は、創作で昇華させることしかできないのかもしれない。
僕は誰も責めない、ただただ悲しい。
それでもどうして、なぜこんなにも無責任でいられるのだろう。
僕は誰も責めない、けれど、絶対に許すことはできない。
多分ずっと、できないと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?