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【読書記録】こうやって、考える

思考の本を手にとって

東大・京大で1番読まれた本として知られている「思考の整理学」
この本を書いた外山滋比古さんは他にも著書がいろいろある。

そこから抜粋して箴言集を作りたいという出版部の思いからできたのがこの本「こうやって、考える」だという。

この本は、コンパクトで読みやすい。
短文だからこそ、なるほど。と思わせてくれたり
それな!と思わせてくれたりする。
はじめにですら、わかりみが深い。

簡潔は智の真髄

昔の結婚式のスピーチは長くてみんなが迷惑していた。
小学校の校長先生のスピーチがあっという間に終わるけどいい話だった。
どっちがいいだろうか?もちろん後者だ。
イギリスには、「簡潔は智の真髄」ということわざがあるという。

確かに、長すぎる文章は結局何が言いたかったのかが伝わりにくいものだ。話している本人すら、何が言いたかったのかわかっていないことすらある。

わかりにくい話とは、本人の中で整理されていないものだ。
まぁ、人生はもやもや続きだからそれが悪いということはないのだが、聞いている方はいい迷惑と思ってしまうのかもしれない。それすらも、聞く側の余裕とか人間の器の話なのか。傾聴力の高い人はそこらへんをわかってる。
聞く力がある人は、その人の話を整理してあげられる質問をする。

重い話は嫌われる

ふと、思いだした。
認知症だった、当時は痴呆と呼ばれていたひぃばあちゃんのことを。
意志疎通がとれない相手との会話は、子ども心に苦痛だった。
きっと、家族なら許容するのが当たり前というのが日本の文化のだろうが、当時の私は時々会うだけのこのよくわからぬ関係の中に、余裕なんてみいだせなかったし、怖かった。嫌だった。近寄りたくなかった。

たとえ、普段は正常に意思疎通がとれている人だとしても、その人の態度は声に現れる。これは、大切に違いない!だから話して伝えねば!そんな気持ちが強い人、押し付けがちなスピーカーはウザい。重い。

私にもそういう所がある。分かってほしいという想いが強かった。うちの状況は大変なんだ!それでも受けいれてくれると嬉しい。受け止めて欲しいって必死だった。子どもに育つ環境は選べない。
だから、遊びに行って男友達に「今はそんな話題やめてくれる?」って言われた時、ちょっとショックだった。一緒にいた女友達は察してくれたけど。そうか、これは重いんだってその時はじめて理解した。
家族の障害とは重いんだ。普通は受け止められないものなのか。

だから実は、結婚する時怖かった。
こんな大変な父親がいるのですが、私で大丈夫でしょうか?そんな感じだった。自信がもてなかった。
夫は、「ぼくんとこにおいで。」って言ってくれたから結果オーライだ。
あぁ、よかった。普通のお家にいれてもらえて。正直ほっとした。
そして、私は実家を捨てた。今でも連絡ぐらいはとる。
でも、年の離れた弟の顔は忘れてしまっていた。
人生、時に逃げ出すことも必要だ。身をもって知っている。
今、幸せだもん。

これらは長いし、重い。
短文でまとめるとしたら
「重い話は、嫌われる。」
今は、ライトで軽い時代だから。
もし、ここまで読んでくれた人がいたら感謝する。

人間の心は複雑でみんなそれなりに悩んでいるのだ。
だからこそ、暴露本とか人の闇みたいなものが売れているのだ。
実は知りたいし、自分も同じだと安心したい。
もしくは高みの見物か。
ほとんどの人は、暗い所は見たくないし、興味もない。
だって、自分はそれなりに幸せだから。
そこが嫌なら行動すればいいじゃない?って思ってるだけ。
自分をその世界に巻き込まないで欲しい。どう接していいのかわからない。

ぶっちゃけ、最近出会っている人たちはそもそも重い家庭で育っていないから、結構人生イージーモードで明るく突き抜けている人も多かった。
今月末はオーストラリア、秋にはベトナムとフランスに行くらしい。
「なんで?」と聞くと、「暇だから。」って返ってきた。
(すごいな……その行動力と資金力)

人生は、生活の連続だ。
どういう思考から、どういう生活を紡いでいるかが大切だ。
TPOに合わせて、心地よくコミュニケーションがとれていたらみんな幸せ。
たとえ、そこに家族ガチャがあったとしても。

重い話は現実のどこかに必ずある。
それをどう考えるか?社会の問題のすべてに今だ答えは出ていない。
そして、重い話は短文では語り切れないものである。
そんな時は、どうするか?
著者の言葉にこんなものがあった。

論理から外れ、混沌に身を任せる
 一心不乱は論理的ではありうるが、新しいものを生み出すことができない。
 不乱は貧しい。混沌、雑談、失敗のなかにこそ新しいもの、おもしろいことが潜んでいるようである。正直で生真面目な人たちが不毛におちいりやすいのは、正しすぎるからである。    『乱談のセレンディピティ』

こうやって、考える p117

正しさだけは、生きづらい。
家族だからこその優しさ、責任だけじゃ息がつまる。
サービス精神とかおもてなしとかだけじゃやっていけないこともある。
助け合い?なんて簡単な言葉で片付けないでほしい。

貧困から学ぶ
 
かつての最大の教育力は貧困であった。貧困は人間にとって大敵のひとつだ。常識的に見れば、貧困は決してありがたいものではないが、人間を育てる経験としてはかけがえのない力をもっている。おそろしい敵でありながら、長い目で見れば、人間の力をのばしてくれる味方である。貧困を呪うのは誤っている。好敵手としてこれに挑戦すれば、思いがけぬ人間力を身につけることができる。

こうやって、考える p175

たしかに、私は貧困だったからこそ携帯電話の料金に人一倍敏感になった。
保険の契約も無駄じゃない?って思うようになった。
そもそも、新築じゃなくてもよくない?ってなった。
安いものが正義になった。
でも、安いもので満足できなかったこともいろいろある。
安い食品は、おいしくなかったり添加物がいっぱいだったり……
あれ?無料で注射できたけど、これって本当に体に必要なものだっけ?
どうして最近のトマトってこんなに甘いんだろう?
キウイって黄色いのが主流だっけ?
紅麴って、別に悪くないんじゃない?発酵食品から遠ざけたいの?
マスコミの役割って何だろう?広告の意味ってなんだろう。
本の内容ですら、フェイクが含まれているなんて知らなかった。

いろいろ疑問がわいてきた。
生活の中の「?」が社会を変えていく。
買い物は、投票だった。社会に対してのそれはOKっていう1票だ。

もしも、手持ちでそれを買うお金がなかったら……
それでもどうしても欲しかったらあなたならどうするだろうか?
それが知識であり、それが知恵なのだ。
貧困だからこそ生まれてくる力。

このnoteだってそうだ。
無料で記事が投稿できる。代わりに何を私たちは差し出しているのか?
広告収入にたよらないなら、有料記事をたくさんつくって売買手数料でみんながハッピーになればいい。noteは株も買えるから応援したっていい。
そういう循環を生むには、貧困だからこその思考と感謝の気持ちだ。
搾取じゃなくて、みんなで一緒に豊かになる道を。
一方的に受け取るばかりじゃなくて、自分も貢献できる道を。

今は、いろいろな道が開かれている。
見つけ出すには、貧困だからこそのハングリー精神がいる。

時間も、お金も、人の能力もハングリー精神があるぐらいで、
少し足りないぐらいがちょうどいい。
いい加減とは、いい塩梅とは、そういうものなのだろう。

この本を読んで、私の頭が活発になる。
こういうことを考えた。
本「こうやって、考える」
一読すると、あなたなりの思考がきっと深まる。

とりとめもない考えが浮かんでは消える。
そんな時間を楽しめる。
普通は、そんなこと楽しめないのかもしれない。
私はこうやって楽しむのが好きなのだ。
思考をぶん回すのが。
だから、今日も本を読む。
ただし、生活が貧弱にならぬように気をつけよう。
それが著者からのアドバイスだ。


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