【インタビュー(2)】平野成美さん(多文化コーディネーター) 〜海外で感じた孤独をバネに
*マスクをしていない写真は全てコロナ禍以前に撮影
【立志編】
「日常編」では、なるみさんの仕事内容について詳しく教えて頂きました。今回は、なぜこのような仕事をするようになったのかなど、なるみさんの過去に迫りたいと思います。
―何がきっかけで、このような仕事に取り組むようになったのですか?
きっかけは、大学在学時代のボランティアです。
当時、静岡に住んでいたのですが、大学生が地域の小・中学校にボランティアとして出向き、海外ルーツの子どもたちの勉強をサポートするという活動をしていました。そのボランティアで、南米や欧州にルーツを持つ子どもたちと直に触れあったのが原点かなと思います。
もう一つの転機は、大学3年生でスウェーデンに留学した時のことです。自ら希望して飛び出していったのに、とても孤独を感じたんです。
社会人の海外赴任なら仕事もあるし、会社と繋がっている感覚があると思います。
でも学生だったので、現地で自分を見つめなおす時間がたくさんあって…。
言葉の壁のせいで、言いたいことが全て伝えられない、相手の言いたいことがわからない。「言葉のない世界に行きたい」とさえ思ったくらいです。
日本では、お互いによく知っている仲間や家族などの限られた関係の中で、母語を使って自由にコミュニケーションできていたんだとわかりました。
その時、気づいたんです。大学のボランティアで出会った海外ルーツの子どもたちも、同じような孤独を感じていたんじゃないかな、と。
しかも自分の意志で日本に来たわけでもなく、親の都合で来た子がほとんどですしね。私は全然、彼ら彼女らのことを理解しきれていなかったと痛感しました。
―ということは、卒業してそのままこの仕事に?
いえ(笑)、一度は一般企業に就職しました。
一方で、社会人になっても、週末は地域ボランティアとして海外ルーツの方々に日本語を教える活動は継続していました。
―平日は仕事して、週末はボランティア活動していたんですか! 大変ですね。
そう、大変だったんです。二足のわらじでしたが、この活動を仕事にしたいという想いがだんだん強くなってきました。
「家でも学校でもない、第三の場所を提供できるような人になりたい」という、学生時代に抱いていた気持ちが大きくなってきたんです。
そこで色々と探した結果、YSCグローバル・スクールに出会いました。
もともとは日本語教師として海外ルーツの子どもと関われる仕事を探していたんですが、当スクールで多文化コーディネーターの求人を見つけました。「海外ルーツの子どもたちに寄り添えるかもしれない。私の求めている仕事はこれだ!」と感じて、思い切って会社を辞めて、静岡から東京に引越しました。
―転職したうえに上京されたのですか! 勇気ありますね。反対はされなかったですか?
周りの人からは、特に反対はなかったですね。むしろ、やりたいことが出来るなら、と応援してもらえました。
でもその頃、テレビのニュースで「支援が必要な海外ルーツの子どもがこれだけいる」というのを見て、自分が学生の頃と状況があまり変わっていないことに気づいたんです。
困っている人がこの日本にいて、当時支援していた子どもたちの顔も浮かんできてしまったので、やるしかありませんでした。
残念ながら日本ではまだ、こういう事業に有給で関われるチャンスはほとんどないので、「やらない」という選択肢はなく、飛び込むしかなかったという感じです。
留学中に感じた孤独感を一時のものとして片付けず、逆に原動力として、新たな世界へ一歩を踏み出したなるみさん。
そんななるみさんがYSCグローバル・スクールと出会ったのは、必然だったのかもしれません。
次回はなるみさんの目指す将来像に迫る未来編。キーワードは『出会い』です。お楽しみに!
構成・執筆:住友商事プロボノチーム
編集:青少年自立援助センター YSCグローバル・スクール
写真:森佑一
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?