書評

東洋哲学入門

「哲学や古典をビジネスパーソンを学ぶべきだ」
ニュースやネット記事や起業家が声をそろえて言います。
なぜ、古典哲学を学ぶことが重要なのかをあなたはわかりますでしょうか。

理由は様々ですが、それを考えるきっかけになればなと思うので、
東洋哲学入門史を読んだ書評を仏教や儒教の変遷を図解で紐解きながら書いていきます。

西洋哲学は階段型

まずは西洋哲学と東洋哲学の対比構造から。

西洋哲学とは、様々な角度からの意見を常時反映しながら思考精度をどんどんアップデートしていきます。


Aという事象に対して各時代の有識者が「それは本当ですか?」という疑問をぶつけ続けます。なので時代発展に伴ってAに対する見方が変わります。
思考を階段のように積み上げていきます。

哲学

有名な哲学者でいうと西洋哲学者はニーチェやルソー。

東洋哲学はピラミッド型

一方で東洋哲学とは、「我は究極の思考に至った。これで間違いない」というゴールが最初に確立されます。そのゴールから考えられる思考を後の時代の有識者がよそ分解していきます。


t哲学入門

有名な東洋哲学者は、釈迦や孔子など。

東洋哲学の起源はインドから

それではここから東洋哲学の起源について解説していきます。
始まりは紀元前650年~。古代インド史上最強の哲学者と称されたのは、ヤージュニャバルキャです。彼の必殺技は「梵我一如」

※梵我一如とは・・・(Wikipediaより引用)
梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること[1]、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。

果て、、、何を言っているかさっぱりと思うので一言で説明すると、


アートマンである私とブラフマンである世界は同じものである。

.....?....?


これが東洋哲学です。何をいっているのかは創始者にしか理解できず、
なんとも曖昧な言葉だけ残していいきます。
そしてこれに感銘を受けた有識者が後の時代で読み解いていくという、
何とも生産性のない哲学です。

この言葉の意味を説明すると、この世のすべてを手に入れても不死にはならないのであれば、永遠の至福にはなれないということ。

ですが不死にはならないことを以下のように説いています。

私というアートマンは認識するものなので認識できない。
認識するものをどのように認識するのだろうか。
不死というのは認識できない自分を認識できた状態であり、それはこの世のすべてを手に入れた状態。だが自分を認識することは不可能なので、不死というのはあり得ない。
私という存在を認識することができない以上、私は何かに束縛されることもなければ、脳や体にも束縛されないものであり、何かの対象になることはない。なので私というアートマンを認識することはできないのである。なぜなら私は認識するもの(認識主体)であるから。

という解釈を最終的にしていますが、
要するに人は「唯一無二」の存在であることです。

「俺が誰にも操作されないのは、俺がみんなを何かの対象としてみてる以上俺は自分自身のことを「○○」と判断できない。みんなも同じでみんなは対象物ではなく、みんなも他人を対象物つけるものだからね。」

としか頑張っても解釈できないのが東洋哲学です。

でもこのままでは終わりません。彼の死後有名になったのが釈迦ですが、
釈迦もまたこの哲学から究極の心理に到達しています。





それが、「アートマンである私は存在しない」です。




支離滅裂するのが東洋哲学ですが、それが醍醐味でもあります。

続きは来週へ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?