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自由人になるために

周りから見れば、どうやら僕は「自由人」であるように見えるようだ。不思議なものだ。自分自身では、今のじぶんを「自由だ」とは思えない。

それは、自由が客観的なものと、主観的なものがあることを意味する。客観的な自由とは、お金や時間に余裕があり、組織に縛られてない状態を自由ということが多い。一方で、主観的な自由は、誰でも今この瞬間から感じられる。そんなはずだ。

ぼくは今、主観的な自由が感じられずにいる。じぶんの好きな場所で、じぶんで選んだ仕事をしている。住みたい場所も、ある程度選べる。というか、選べる。

でも、自由じゃない。多分それは、しっかりと自分の軸に沿った行動ができてないからだと思う。じぶんの意思に反する行動をしたり、じぶんが望んでいない方向に向かっていることに気づいて、それを直視せずに、ただ脳死して走っているから...。などと考えていた。

先日から「ゼロベース、ゼロベース」と言っているが、本当にゼロベースで考えられていない自分がいる。じぶんにとって、どこで幸せを感じ、なにが自由なのかも分からなくなってきた。

なんかすげーネガティヴなことを言ってるが、別に元気がないわけでもないし、むしろ毎日運動をして元気だ。これからどう生きていこう。そんな話を今、している。

話を戻そう。ゼロベースで考えることは、とても大切なことだ。一旦、失ってみる。一旦、辞めてみてる。一旦、切ってみる。無くなってから「あぁ、やっぱ必要だったな」と思えば戻せばいいし、「え、意外とそれ要らなかったわ」と感じるものもある。

ぼくは先日、パソコンを友人に譲った。ぼくの仕事を手伝ってくれる条件で譲って、3日間がたつが。何一つ困っていない。確かに「不便だなぁ」と思うこともあるが、その大概は「スマホでカバーできること」である。

人と会うこと、積極的に動くこと、「出先なので戻り次第、資料を送ります」とレスに待ってもらう時間ををなくす。そうすることで、もっと身軽になるんじゃないかと考えた。

困ったことは、今のところない。少し不便な、だけだ。その不便さも、別の便利さとの引き換えだと思えば妥協できるものだ。

一旦、ゼロにする。そうすることで、自分の望む場所に行ける。そんな気がする。まだ分からないけど。よし今後、さらに動こう。そしてしっかり休もう。動く、休む。動く、休む。

これから自信をもって「ぼくは自由だ」と言える生き方をしていくし、身の回りの環境も引き続き整えていこうと思う。

パソコンの代わりにスケッチブックを持ち歩く僕

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