生き物としてのうつわ:桑田卓郎の芸術
※ このテキストは、桑田卓郎「TEE BOWL」(2021年、KOSAKU KANECHIKA)のレビューで、将来出版される本展カタログに収録されるものです。
『宝石の国』の主人公たちは10代の少年少女のような姿形をした種々の宝石だ。彼らは共に生活し、しゃべり合い、特定の相手に愛着を持ったりする。そんな日常的な風景の傍ら、彼らを狩りに来る者たちとの闘いがあり、物理的な衝撃を受けるとそれぞれの鉱物の性質そのまま、頭も体も無残に砕け散ってしまう。しかし面白いことに、砕け散ったかけらを集めてつなぎ合わせればまた息を吹き返す。ただし復活はときに数百年という時間を要する——。一見荒唐無稽な設定のようにも感じられるのだが、考えてみれば、それほどおかしな話ではないのかもしれない。
なぜかと言うと、この星の有機物と無機物はすべて似たような物質——元素——がくっついて出来上がっているからだ。H(水素)、He(ヘリウム)、C(炭素)、N(窒素)、O(酸素)、Na(ナトリウム)、Mg(マグネシウム)、Ca(カルシウム)、P(リン)……。人間も動物も、鳥も魚も虫も、プランクトンも珊瑚も貝も、砂も土も岩も、石油も海水も大気も、簡単に言えばこれらが混ざり合ったものである。
わたしたちの様態はさまざまで、ひとつの人間の個体がその姿を保つ時間は数十年程度と短いのに対し、たとえば花崗岩などは数十億年をかけて、マグマから岩へと変化する。だからまったく違う存在であるように感じられるのだが、それでもわたしたちは同じような元素:H、C、N、O、Na、Mg、P、S、Cl、K、Ca、Fe、Si、Al、etc.でできている。
花崗岩はやがて風化して土になり、その土は陶の制作にも使われる。つまり陶も、鉱物が見せる、ある様態と言えるだろう。そしてつまるところ、わたしたち人間のような生命体も元素がひしめき合う中に沸き起こるひとつの現象にすぎないのだから、陶もそれと同じ、ひとつの「命」の姿だと言ってみる——。
そんな思いを巡らせたのは、桑田卓郎の造形に、なにか見たことのない生き物か、その一部分であるかのような感触を抱くからだ。
本体の表面にある大小複数の突起物は、汗や、吹き出物や瘤(こぶ)を連想させるだろう。中でも大きなものは、舌や触覚や性器に見えたりする。つい、隣にいる個体をその触手でまさぐっているさまを思い浮かべてしまう。あるいはその突起は、生き物から出てきた体液や排泄物のようにも見える。たとえばいくつかの作品には、茶色くいびつなかたまりが吹き出している。糞便のようだと一瞬思う。触れれば、手にくっつくだろうから、わたしは頭の中で、手についたものをどこかになすりつけて取り除こうとする。
別の作品の、割れて垂れ下がった厚い表皮は、乾ききってひび割れた皮膚や、火傷でただれ落ちた肉のように見える。そのビジュアルは、体の裂け目に走る痛み、腫れに伴う痒みのような、ぞくぞくした身体感覚を誘発する。あるいはまた、内にとどめようとしてもおさえきれず噴出する、喜びの感情が色彩を帯びたかのようにも見える。笑いで口腔が開き、目が開き、手足が投げ出され、その興奮ゆえに見えてはいけない身体の底部までが露出している。あちこちから涙や唾液や汗が、とめどなく染み出してくる——。
なぜこんなにも生々しいものが出来てくるのか。それは桑田が選び取った陶という素材・技法と深く関係しているようだ。釉薬のひび割れ(“梅花皮(かいらぎ)”)は、焼成によって収縮する際に素地よりも大きく縮んだときに起こるもので、元来失敗とされていたものが、歴史の中で「味わいのあるもの」と積極的に評価されるようになったものだ。また小さな突起(“石爆(いしはぜ)”)は陶土の中に混入していた石などが焼成中にはじけてできるもので、これも失敗とされていたが、後世に価値を見直されるようになった。桑田はこの、コントロールしようとしてもできない、土が要請する現象を、最大限に生かし、解放しようとする。自然のエネルギーを取り出すように、生き物を生み育てるように、あるいはその進化を手助けし、見守るように。
彼は、成形したものを窯に入れたあと、出来てきたものとの遭遇を楽しみにしていると語り[ii]、また、窯から出て来たものに失敗はなく、すぐに作品として出せないものはスタジオに保管して、時間をかけて理解するのだという[iii]。もちろん、あらゆる創作は偶然性とともにあるのだろうし、陶芸は特に、造形に現れた現象を失敗と成功のどちらに解釈するかまで含んでできあがるものだ。それでも、土の声を聞き、窯内の化学変化に成り行きをゆだね、結果をふまえてさらに成長を促し、その展開の先へ進もうとする桑田の創作には、異なる次元を感じる。創造主たらんとしているのではない。ゼロから何かを作り出そうというのではなく、プロセスの中で、ひとつの環境、ひとつの作用として働こうとしているように見える。たとえば花崗岩の生成には海が必要不可欠だというが、そんな感じが近いかもしれない。
これら桑田の作品が、生き物や有機物のような存在感を醸しつつも、湿り気がなく、かっちりと硬い、清浄なものとして現前していることも、わたしたちにはわかっている。陶土は熱を加えることによって水やガスを放出し、長石や珪石などの原料が共焙反応により変化して固化する。ピンクや水色のアイスクリームのような釉の部分も、長石が熔けて固化する中でガラスとなり、冷却したのちは、もう触っても形が変わることはない。内側と外側から力が釣り合い、化学が要請するポイントで、すべてはそこにとどまる。
この、陶そのものの特長は、桑田の作品に鮮烈な両極性をもたらしている。柔らかいイメージと硬いイメージ。汚辱と清浄。俗と聖。粘土が動く暫時と、鉱物の質感が醸し出す永遠性。実際、たとえば油絵の寿命が300〜500年とされるいっぽうで、やきものは人類がそれを作ったときからすでに数千年の時を生き延びており、その化学組成から言っても、今後永いあいだ残り続けると予想される。
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桑田は京都嵯峨芸術大学短期大学部美術科陶芸コースで陶芸を学び、卒業後は陶芸家の財満進のもとで陶芸への理解を深め、その後さらに多治見市陶磁器意匠研究所で陶芸の研究を行った。美濃という、古くから焼き物の里として知られてきた土地に移り住み、スタジオを構えた。
彼の造形の基本は茶碗だという。キャリアの初期には、実用的な形の茶碗を量産する時期もあった。実用から離れ彫刻的な表現に挑戦するようになっても、茶碗の形か、茶碗を伏せた形をもとにしている。そのため、桑田の作品の多くは、底か頭部のどちらかが丸みを帯びている。
もとは茶碗だった、と聞くと、茶を口に注ぐため、うつわを手に持つときの感覚が蘇る。ところが、桑田の作品には、日常性の真逆ともいえる祝祭性が明らかだ。茶を飲むという用を足すにはまったく不必要で邪魔な突起とごつごつした付着物、金銀や原色やパステル調の色彩——。茶碗という日常性から出発したことで、生々しさがいっそう際立っている。
石﨑泰之は、桑田が志野焼の伝統を踏まえて、その特徴的要素を再構成し、現代の芸術へと昇華させていると分析した[iv]。清水穰は桑田の作品を同様に「陶芸史を踏まえたポップで洗練されたコラージュ」と評し、さらにそこに侘び・寂びやレディメイドと重なる価値転換を見いだしている[v]。
陶芸を含む「工芸」は近代から現代にかけて政治性をはらんだ概念であり続けてきた。ナショナル・アイデンティティ、文化輸出、西洋との邂逅と軋轢、作家の主体性、芸術の自立性、大量生産、資本主義……わたしたちが近代以降に直面したさまざまな芸術上の問題と、工芸はじかに接していた。現代美術の作家たちも、工芸を社会問題に向き合うひとつのルートとして採用する。たとえば、アイ・ウェイウェイは、床に敷きつめた1億個の陶製のひまわりの種《Sunflower Seeds》(2010)でグローバル資本主義の様相を考えさせたし、スザンヌ・レイシーはキルトパターンをモチーフにした高齢女性たちのパフォーマンス的プロジェクト《クリスタル・キルト》(1985-87)で、ジェンダーの問題について問いかけた。
現代社会を生きるわたしたちにとって、工芸という括りがあぶり出す社会政治的視点は示唆に富んでいる。桑田の作品もおそらく今後誰かの手によって、そのような側面が考察されていくだろう。たとえば、工芸らしさと芸術的強度の関係などはもっと掘り下げられていくはずで、それはファインアートと工芸をいまも分け隔てているポリティクスを批判的に照射する一助になるだろう。
とはいえ、桑田の作品を人間の時間だけで測るのはフェアではないと感じる。彼がやろうとしていることは、本質的には、鉱物や化学との対話、つまり星の時間に属することだからだ。
ここで、桑田と同じように奇抜な色と形の造形を生み出していた岡本太郎を引き合いに出してみる。岡本は「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」(太字筆者)と、共感をはねつけた。彼はむしろ攻撃性(「爆発」)を重視し、「いやったらしい」絵を描き、その態度によって同時代の人々を挑発しようとした。
もし桑田が政治的であったなら、岡本と同じように「芸術は爆発だ!」と叫んでもよかったのだ。しかし彼はインタビューで次のように語る。
サイケデリックな色彩をもつウミウシの存在が攻撃的ではないように、桑田の作品は攻撃的ではなく、どこまでも優しい。作家が媒介の海となり、火が要求した姿で生まれたその生き物は、すみずみまで神経や毛細血管がはりめぐらされ、温かく、そこに在る純粋な喜びに満ちている。
本展「TEE BOWL」では、近年肥大化傾向を見せていた突起が、ある作品で本体を離れその下部に大きくおさまった。思いもよらない展開に驚かされるばかりだ。この生き物たちはもっと進化するだろう。そして、この星に生きる仲間として、わたしたちよりずっと遠い未来を見ることになる。
[i] 市川春子『宝石の国』第11巻、講談社、2020年
[ii] 「桑田卓郎インタビュー 陶芸かアートか。過激なる景色に息づく魂」、Numero TOKYO(ウェブ)、2020年1月11日(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2020年1・2月合併号掲載)、https://numero.jp/interview184
[iii] Yuka Uchida「コム・デ・ギャルソンと、桑田卓郎のセラミックアート。」、Casa BRUTUS(ウェブ)、2018年(『カーサ ブルータス』2018年9月号より)、https://casabrutus.com/posts/83070
[iv] 石﨑泰之「Dear Tea Bowl, Horsetails are in season in Hagi.──桑田卓郎の創造的侵犯力」、展覧会リーフレット、山口県立萩美術館・浦上記念館、2019年、https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/exhibition/tearoom2019_leafret.pdf
[v] 清水穰「レディメイドとしての茶碗」、『桑田卓郎 I’m Home, Tea Bowl』図録、KOSAKU KANECHIKA、2018年。陶芸史、美術史における桑田卓郎の位置づけについては前項と本項のテキストを参照されたい。
[vi] Masami Watanabe「~器のセカイ~陶芸アーティスト 桑田卓郎さん」、Qorretcolorage、2015年、https://qorretcolorage.com/2015/06/27/844/
参考文献:
樋口わかな『やきものの科学』、誠文堂新光社、2021年
Julia Bryan-Wilson, Craft and Commerce, Artforum, February 2011
展覧会情報:
KOSAKU KANECHIKA
https://kosakukanechika.com/exhibition/teebowl/
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