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カンウォン国際トリエンナーレ2024: Ecological Art from Beneathに寄せて

インターナショナル・コミッショナーとして参加している韓国のGangwon International Triennale 2024のカタログに寄稿したテキストの日本語版です。(カタログには韓国語と英語で収録されています)

小さき者たちの物語——右往左往しながら生き抜くこと

金澤 韻 

 

アリのトンネルが示すもの

アリのトンネルをメタファーにした今年のカンウォン・トリエンナーレのテーマについて聞いたとき、柳幸典の「The World Flag Ant Farm」という作品を思い出しました。私自身が現代美術に初めて興味を持ち始めた頃に出会った、思い出深い作品です。砂で作られた世界中の国旗がパイプで繋がれていて、その中に生きたアリが棲んでいました。アリのトンネル作りによって砂が混じり合い、旗のパターンは徐々に崩れていきます。この作品は、国家という概念がアリたちにとっては意味のないものである様子を示し、そしてそれを通して、私たち人間にも、過去に人間が作った境界やルールに捉われない見方を促していました。

 柳のこの作品シリーズは、主に1990年代、東西冷戦が終結した後のユーフォリックな世界観の中で生み出されたものでした。2024年の現在は、人々が抱く世界観はもっと複雑になっているかもしれません。国家間の問題とはまた別に、パンデミックやエネルギー問題、グローバルウォーミングのように地球規模で取り組まないといけない課題が頭をもたげています。そのような状況を踏まえ、カンウォン・トリエンナーレ2024は特に環境問題に寄り添っています。アリのトンネルは、地表の過酷な気候をやり過ごす、温度調節機能を備えた空間として注目されています。自らの手で生み出され、暑さや寒さ、湿度や乾燥に応じて作り変えられる、居住者による居住者のための構造物です。

 

適応の結果としてのアナキズム

 地上の状況と呼応しながら地中にオルタナティブな空間を作り出し、生存に適した環境を自ら整えること。それは支配からの解放により手作りの秩序を実現しようとする、本来の意味でのアナキズム(無支配主義)と言えそうです。では、そのようなアクションは、アリたちだけのものなのでしょうか?

政治学者であり人類学者であるジェームズ・C・スコットは、『ゾミア 脱国家の世界史』で、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー、そして中国の雲南、貴州、広西、四川にまたがる丘陵地帯に独自の社会と文化を築き上げた山岳民について記述しています。彼らは一見、文明の発達から取り残され、孤立しているかのように見えるのですが、スコットは「このような人々の経済的、政治的、文化的組織は、国家構造から逃れるための戦略的適応」であったと主張します(p.39)。そのようにして彼らは、徴税や強制労働や、人口集中の結果としての伝染病から距離を置き、生き延びる可能性を高めてきたのだというのです。

 また文化人類学者のアナ・チンは、別の角度からこの問いに答えます。チンは著作『The Mushroom at the End of the World』の中で、主題となっているマツタケ・マッシュルームを、菌、自然環境、人間とその社会が絡まり合うものとして捉えています。アジアから北アメリカとメキシコ、中東、北欧にまで伸びるマツタケのサプライチェーンには、気候変動と森林破壊はもとより、マツタケを狩る人間も一つのファクターとして関与しており、その人間たちは、戦争や資本主義経済の負の影響を受けていたりします。語られるのは決してポジティブなエピソードばかりではないのですが、副題「On the Possibility of Life in Capitalist Ruins」に表れているように、資本主義が破壊してきた環境や人生の、瓦礫のただ中で、そこにあるものに呼応し、また利用して、それぞれがなんとか生きていっている様子はとても印象的です。ここにも、国家や既存の枠組みを過度に頼るのではなく、自律していく生のありようを見ることができます。

 

オルタナティブな思考の時空間

 私自身、ここ数年、土をテーマにした展覧会など、人間以外の生き物や無機物を主人公に、ポストヒューマンな視点を持つ仕事を手がけてきました。環境問題といったあまりに大きな課題に直面し続けて、学習性無力感に陥るのを避けたかったということはあると思います。とはいえ、私が伝えたかったことは、人間の存在や人間社会を否定することではありませんでした。私はオルタナティブな思考を応援したいのです。一度作ったものを見直してみたり、小さい区切りを乗り越えてみたり、機能しなくなったものを再利用してみたりするマインドを持つこと。そしてそれを可能にする時空間を想像することを応援したいのです。

 カンウォン・トリエンナーレ参加作家の一人、トマス・サラセーノは、空中にそのような時空間を思い描いてきました。実際に太陽光エネルギーだけで飛ぶ気球や、空中を縦横に移動できるインスタレーションを実現させてきた彼の実践は、地表とは別の活動域を示している点で、地中に展開するアリのトンネルと響き合っています。彼はこう語りかけます。「いつの日か地球サイズの庭園に住むことができるのでしょうか? 雲間に漂う生態系の中で生活できるでしょうか? こうした問いかけは単なる技術的な挑戦ではありません。それに答えることで国境を越えた移動の自由を考え直し、現代社会における政治、社会、文化的制約や、国防上の制約を乗り越えることにもなります」。[i]

「小さき者」

 ここで、トンネルを作り出す主人公であるアリ——“小さな生き物”に目を凝らしてみたいと思います。言うまでもなく、アリは私たち自身のメタファーです。しかしアリたちは、勤勉に立ち働くだけの存在なのでしょうか? そこには他にどんな意味合いを読み取ることができるのでしょうか。

 米谷健&ジュリアが昨年京都で開催した個展のタイトルは「俺たちだって微生物」でした。そこで彼らは白化したサンゴに覆われたように見える人間や動物の像を生み出し、共生とバランスの崩壊についてのビジョンを表現しました。彼らは東京、シドニー、ベルリン、沖縄に住み、アーティスト・イン・レジデンスなどを通して世界中を旅する中で、環境と経済についての深い洞察から、数々のインスピレーショナルな作品を生み出してきました。カンウォン・トリエンナーレには、人間の過剰な灌漑農業によって引き起こされたオーストラリアの塩害をモチーフに、塩でできた彫刻作品を展示しています。

 米谷たちは近年、環境と経済について考えてきたことを生活上でも実践しようと、移り住んだ京都の山あいで農業をしています。彼らは完全無農薬での栽培にこだわり、それが、土の中に棲んでいる微生物たちに気づくきっかけになりました。ご存知の通り、微生物は動植物の死骸を分解する働きをするもので、よい土壌を生み出すために欠かせない存在です。

 米谷たちの理解はそこからさらに進んでいき、この世界が微生物から虫、動物、植物、無機物にいたるまで、大小さまざまな存在が繋がって成り立っていることに気づいたといいます。「微生物」は人間の目に見えないほど小さな生き物を指す総称で、カビやキノコ、プランクトンはもとより、ウイルスさえもその中に含められることもあります。キムチを発酵させる乳酸菌や、光合成によって酸素と養分を生み出すシアノバクテリア、発電する菌・シュワネラ菌など、微生物はそれぞれが特異な性質を持ち、それぞれに固有の活動をしています。単細胞生物の粘菌には脳がありませんが、まるで考えているかのように、飢餓状態に置かれれば集団行動をしたり、役割分担をしたりするそうです。食中毒を引き起こすO157や、近年パンデミックを引き起こしたCovid-19など、特定の微生物が人間にとって「悪」と判断されることはありますが、本来的にはそこに善悪の区別はありません。米谷が悟ったのは、すべてのものがせめぎ合うバランスの中に私たちが生きているということでした。

 こうした、微生物の姿を私たち自身に重ね合わせるとき、人間も宇宙の中では微生物のような“小さな生き物”の一種なのだという思いが湧き起こってきます。キノコや虫やカタツムリの生態に大きな関心を寄せるチェン・シーは、今回、虫の視点から見た風景をつなげたような映像作品を出品していますが、実は彼の真骨頂は長編アニメーションで、そこでは動物か異星人かロボットのような者たちがスペクタクルな闘いを繰り広げています。これは例えば「キノコが生存のために一斉に胞子を飛ばす様子」のメタファーのようなものだそうです。

 “小さな生き物”としての私たちは、劣悪な環境の中、必死に生き延びようとする哀れな存在でしょうか。20世紀中頃に始まったとされる「人新世」は、プラスチックやコンクリートなど容易には分解されないゴミが堆積する時代でもあります。いっぽう、ダナ・ハラウェイは人新世ではなく「クトゥルシーン」という名づけを提案し、私たちと周囲のものすべてが次世代の堆肥となるビジョンを説きました。展示現場でゴミを拾い、プラスチックボトルも分け隔てなく素材とするJung Seunghaeの芸術実践の中には、目にはっきりとは見えなくとも、「分解者」である微生物や虫の存在があるはずです。ここには、長い長い時間をかけて循環していくより根源的な生命力が感じられます。

 「小さき者」は、やはり、小さい存在なのでしょうか? そうかもしれません。しかし、そのパフォーマンス映像の中で、リ・ビンユアンが小さな画板を濁流に掲げる様子(《画板》)を見せるとき、またレジーナ・ホセ・ガリンドの生身の体が土に埋められ、また彼女がふたたびその中から姿を現すのを目撃するとき、個々の「生きる」意志と、不屈の精神に感動せざるを得ません。周縁で、また国という制度や資本主義のはざまで、居場所を見つけて生きること。自らの手によって生存のための時空間を整えていくこと。さまざまな生き物と存在の繋がりの中にあることを意識すること。そして何はともあれ個として知恵と力を漲らせること。そうやってしたたかに生きていく私たち自身の姿を、いま一度、強くイメージしてみたいと思います。

 

 

(引用文献)
Scott, J. C. (2009). The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia. Yale University Press.(邦訳:ジェームズ・C・スコット(2013)『ゾミア 脱国家の世界史』佐藤仁監訳、池田一人、今村真央、久保忠行、田崎郁子、内藤大輔、中井仙丈訳、みすず書房)

 Tsing, A. L. (2015). The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins. Princeton University Press.(邦訳:アナ・チン(2019)『マツタケ 世界の終わりの野生キノコ』赤嶺淳訳、みすず書房)


[i] トマス・サラセーノ「空に浮かぶ都市に住んでみませんか?」、TED Talk 2017年4月 (日本語字幕翻訳 SUZUKI Tomoyuki、レビュー YOSHIDA Yuko) *原文は字幕用スクリプトのため、筆者が適宜句読点を挿入した。 https://www.ted.com/talks/tomas_saraceno_would_you_live_in_a_floating_city_in_the_sky?utm_campaign=tedspread&utm_medium=referral&utm_source=tedcomshare (アクセス日:2024年7月20日)

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