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社会通念を変えていくには

OCAT上海館で4月28日から開催されていたグループ展「环形撞击:录像二十一(英語タイトルはThe Circular Impact: Video Art 21)」で、作品の一つが厳しい批判をうけた。宋拓(Song Ta)の《校花》、英語タイトルは「Uglier and Uglier」(だんだん醜くなっていく)だ。

批判が出たのは6月17日、OCATがWeChatの公衆報でこの作品の説明を発行したタイミングだ(公衆報の中身は削除されてもう読むことができない)。

実は私がこの展示を見たのは5月15日で、このひと月ほど前だ。

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女性が一人ずつ登場して、数字がカウントアップしていく。そしてタイトルがUglier and Uglier。つまり美しい順に出てくるということ。私は「なにこれ?え?なんで展示されてOKなの?」と思った。5月18日にInstagramで疑問を投稿している。
「質問があるんだけど、主に中国現代美術界のみんなに。この作品て倫理的にOKなの?公的なミュージアムとかアートスペースに展示して?それか、なにか私がアクセスできてない情報があるのかな。7時間あって、私最初のほうしか見てないし…」

ふだん私のインスタは中国現代美術界の人々もそこそこ見てくれているようなのだが、このポストへの反応は妙に鈍かった。レスをくれたのはニューヨークのアーティストが一人だけ。彼女は「様子がわからないのでなんとも言えないけど、ちょっと引くよね」。

説明書きがまったくない展覧会だったので、作家の所属ギャラリーとOCATに聞いてみることにした。ギャラリーは返信なし。OCATにはWeChatで「ここで質問してもいいですか?」と聞いたら、2日後に「どうぞ」と返信があった……のを見落とし、その後忙しくなって放置してしまっていた。

そして美術手帖の6月24日のニュースで思い出したのだった。この間にネット上は非難の嵐となり、作品はすぐに取り下げられ、また「閉館時期を検討中」というアナウンスが出たようだ。Artforumの記事によれば6月18日には閉じている。

美術手帖(日本語)とArtforum(英語)の記事:

あの時、5月の時点でOCATに問い合わせができていれば、注意喚起くらいはできたのかな、と少し後悔した。(まあ、何も変わらなかった可能性の方が高いけれど)

このグループ展を企画したインディペンデント・キュレーターの戴卓群(Dai Zhuoqun)は6月26日、ウェイボーで「宋拓是一位好艺术家,《校花》是一件好作品,一件讽喻现实的杰作。(ソン・タはよい作家、《校花》はいい作品、現実を風刺した傑作です)」とつぶやいている。

そこでちょっと立ち止まって、この作品が現実の風刺だったのかなと考えてみる。確かに私たちの暮らす世界は容姿によって人を価値づけする面があり、この作品はその”おかしさ”を取り出して見せたのだというのは、主張としてはわかる。「みんな実際やってんじゃん」と。「強調しただけだよ、悪いのは僕らなの?」と。

でも私には、風刺というより、人が容姿によってランクづけされる現実そのものを写したように見えた。映像の中にその価値づけをゆさぶるような機智はなく、救いもない。そうなると単純な映像としても、現代美術の作品としてもまともに鑑賞できない。単に作家がこの世界の醜悪さを追認し、自身も乗っかって楽しんでいるように見える。それに、作品の出来の良し悪し以前に、肖像権の問題が解決されていない。そういう意味では、そもそも生み出され得ない作品だったかもしれない。

もしこれが風刺として見れる作品で、肖像権もクリアしていたとしよう。でも少なくともキュレーターは、作品が展示されたとき「観客にどう見えるか」をできるだけ正しく読む必要があるし、いい作品だと主張するのなら、”誤解”を回避するためにせめて会場に説明を用意するとか、なにかすべきだった。仲介する役目なのだから。

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先日、MadeIn GalleryがOCATと同じビルの同じフロアに移動してオープンするというので現場に行くと、OCATは閉じたままだった。「ネットですごく大きな騒ぎになったし、今年は共産党設立100周年の大事な時だったから」と中国人の知り合いが言う。「閉館」は一時的なのかが気になっていたら、しばらくしたらまた開くと思うよ、とのことだったのでほっとした(OCATは大好きな場所の一つである)。

「でもなんでOCATはあの作品を展示したのかな?」と聞くと、「古い作品なんだよね。2013年にUCCAで展示した時は大丈夫だったから、今回も大丈夫だと思ったんじゃないかな」。

このへん、時代は進んでいくんだな、と思わされた。最近友人に薦められて読んだ漫画「女(じぶん)の体をゆるすまで」の中にも、そんな記述が出てくる。この漫画は著者が自身の体験をもとに描いたエッセイ。自身の受けた7年前のセクハラ行為が、2013年当時に訴えたら負けたかもしれないけど、2020年の今訴えたら勝てる、と弁護士に言われる場面がある。

「何が違うかというと、当時と今で、社会通念が変わったんです」と弁護士が言う。そこには#MeeTooや個々人の告発などによって、問題が顕在化してきたことが影響している。

社会通念というのは、なかなか変わらないようで、気がつくとけっこう進んでいたりもするからあなどれない。私自身は90年代に、アンチスモークという社会運動に身を投じていた(この話は去年の展覧会、パラトリ2020そのうち届くラブレターのブックに少し書いた)のでよく分かるのだけど、当時は喫煙は当たり前で喘息の私のほうが悪いというのが社会通念。起こしたアクションは個人的な感触で言うと連戦連敗、うまくいかずに傷つくことばかりだった。それでも多くの人の声が集まり、「駅のプラットフォームを禁煙に」といった切なくも低レベルな願いが10年ののちに叶い、「室内は基本禁煙に」という高い(と思われた)目標も2020年の東京ではだいぶ実現している。振り返れば、周囲に「難しいと思うよ」と言われつつも、ちょっとずつ声に出し続け、積み重ねていくことの大事さを思わずにはいられない。

ところで、4月28日に展覧会が開幕してから6月17日まで、《校花》を見た人は何も思わなかったのだろうか?

展覧会会場がセルフィー撮影現場と化す上海で、まじめに作品を見ている人はほとんどいなかったのかもしれないが、もしかしたら「言えない空気」みたいなものもあったのかもしれない。作家もキュレーターもそれなりのキャリアがあるし、OCATも一定の評価を得ている機関だ。

いつも、闘っている相手というのは、自分の中の「これを言ったらまずいのかな」と尻込みする気持ちなのかもしれない。そこでまたまた自分の経験を振り返ってみて言えることは、声を上げるとは、なにもプラカードを持ってデモに行くということだけじゃなくて、直接メールを書くとか、親しい人に話すとか、つぶやくとか、いろんな水路があるし、あと主張じゃなくて質問だっていいということ。

人がありのままで生きることができる環境を、自分たちで作る。できる範囲でちょっとずつやっていこう。

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