イマジナリーこの世

 勉強ができるようになりたい。でも、やり方を教えてもらったり、ミスを減らすやり方を試したりはしたくない。要するに、いきなり問題を解いて、やり方が分かって、正解したい。
 というような希望を、小学生くらいの人からお出しされることがしばしばある。勿論、無理である。実際の「勉強ができる人」がどういう過程を経てそうなっているのかは、大人には周知の事実だ。もちろん一部の天才は除くとして。

 絵が上手になりたい子どもさんが、練習はしたくない。いきなり描いて勝手に思った通りの絵が出来上がる方法が知りたいんだ、というようなことを主張していた、なんて話を最近目にした。

 幼くてまだいろんなことの仕組みや仕掛けが分からない人間には、世界がそういうふうに思えているのであろう。「イマジナリーこの世」とでも言おうか。

 ただ、私もこと「愛」というものに対しては、ずっと私の「イマジナリーこの世」を生きているのであろうと、最近気がついた。

 物心がつくとともに、人と人との間にあるらしい「愛」というものについて、本や漫画を読んだり、流行歌を聞いたり、色んな人の話を聞いたりして、きっとこういうものなんだなという形が頭の中にできていった。実際に存在しているところはまだ見たことがないけれど、それはまあ、まだ子どもだし、そのうち出会いうる(自分自身に降りかからないとしても)ものだろうと思っていた。

 そうして、自分がそういうものに出会わず、また、身の回りでも観測できないままに月日は過ぎていく。自分が「愛」だと思ったものが観測できたと思うたびに、目の前でそれが失われていった。何度も。
 そして、今度こそ本物を見つけたと思ったそれは、最も最悪な形で失われた上に、何度も何度もすり潰された。そんなものではないよ。そんなものはないよ。こっちの方が本物だよと、何度も。

 幼い日からずっと私が思って信じている「愛」というやつは実際にはどうも見当たらず、「愛」でつながっているとされる男女(私の持っているサンプルのほとんどが男女のため)の間にあるものは、私の「イマジナリーこの世」の定義においては、「社会性」や「性欲」にすぎないものだった。でも、「実この世」にとってはそれが多分「愛」なのだ。

 結局、私が生きている世界には愛がなくなってしまった。

 昔々夢の中で食べたホタテの串焼きの味を思い出す。すごく美味しくてまた食べたいけれど、実際のホタテの串焼きの味とは全く違う味だった。

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