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江戸時代に日本語の”進化論”を考えた学者が居た〜鈴木朖の《言語四種論》

 生物学における進化論とは、生物は原初の単純なものから、徐々に変化して現在のような姿になったとする考え方を指す。進化論の先駆者といわれるフランスのラマルクがその説を述べたのは、有名なダーウィンより半世紀ほど早く、十九世紀初めのことだったが、それとほぼ同時期に、言語は原初的な状態から発達してきたものだと説いたのが、日本の鈴木あきらという人物だった。

 鈴木朖は尾張人で、宝暦十四年(西暦1764)に生まれた。その学問はもともと荻生徂徠の流れを汲み、長じて本居宣長の門に入り、江戸に遊学もした。後には儒学を以て尾張藩に仕えた。『言語四種論』・『雅語音声考』・『希雅』・『活語断続譜』などを著す。天保八年(西暦1837)に他界。
 こうした経歴からもわかるように、鈴木朖は伝統ある漢学と、当時新興の国学の両方に精通していた。言語学的にいえば、日本語と中国語に造詣が深く、二つの言語を対照しつつ観察し分析する眼を持っていたと言えよう。
 鈴木朖がおそらく二十年以上温めていたと思われる『言語四種論』が刊本となったのは、文政七年(西暦1824)のことであった。この『言語四種論』という本は、まずは品詞について論じたものとして紹介されることが多い。品詞とは、いろいろな単語について、どんなものはなに、こういったものは名詞、そういったものは動詞といった分類をするものである。

 日本における体系的な品詞論は、鈴木朖より一世代前の富士谷成章なりあきらに始まるといわれる。富士谷説は単語を、(名詞)・よそい(用言=動詞や形容詞)・挿頭かざし(語の前に付くもの)・脚結あゆい(語の後に付くもの)に分類する。文を構成する上での位置付けに軸足を置いた考え方だと言えよう。
 鈴木朖の品詞論は、富士谷説とは異なり、体ノ詞(活用のない詞、ほぼ名詞の概念に相当)・形状ありかたノ詞と作用しわざノ詞(形容詞と動詞にほぼ相当)・テニヲハの四分類を立てている。朖は四種論を著した動機として、従来は用ノ詞、活語(用言、活用のある語)などと呼ばれて一括されてきた類は、さらに形状と作用の二種に分けるべきだと説くことにあるとし、またそうした活用のある単語は、活用のないものに「テニヲハ」が付着して発生したのだとする考えを述べている。

 この「テニヲハ」というのは、古くから使われていることばで、これになにを含めるかは場合によって幅の違いはあるが、一般的には助詞、助動詞を中心とし、用言の活用部や接尾語など、いわゆる自立語でないものをそう呼んでいる。しかし、朖はこれに、いわゆる付属語とともに、副詞や間投詞のような自立語を加えている。
 この点について、加藤重広は、

自立語と付属語を区分せずに用言を動詞と形容詞に分けるというバランスの悪さに違和感を覚えるが,山田 (1908) でも富士谷を称揚する一方でこの四区分は批判している。

「日本語の参照文法書をめぐって なぜ日本語の参照文法は書かれないか」

 と言っているが、これははたして適切な批判だろうか。加藤が引いている山田孝雄よしおの『日本文法論』にしたところで、四種論を表面的に批評しているだけで、朖の進化論的発想は全く理解していない。また、朖は「テニヲハ」の中には「独立たるテニヲハ」とそうでないものがあると言っていて、いわゆる自立語と独立語を区分していないのではなく、テニヲハの下位分類として置いていることも指摘しておく必要がある。

 朖の四種論は、たんなる品詞論ではなく、日本語の語彙がどのように発生し、発達分化してきたかを考えているのである。朖の述べるところに、わたしの斟酌を多少加えて説明すると、日本語は次のように進化したということである。
 まず原初の段階の言語には、いうところのテニヲハのようなものだけがあった。たとえば何かに驚けば、その驚き方によって「あ」と言ったり、「お」と言ったりする。あるいは、何らかの物事について表現するのに、口から出る音声を工夫して、どうにか伝えようとする。古・テニヲハの時代だ。
 次に、テニヲハのうちのオノマトペ的なものが発達して整えられ、物事を指しあらわす語彙ができる。これが体ノ詞(名詞)の始まりだという。
 こうなると、体ノ詞とテニヲハを連ねて文を作ることができるようになるが、そのうちに体ノ詞の一部の語彙に、ある種のテニヲハが固着して、活用のある語類ができた。これが形状ノ詞と作用ノ詞(形容詞や動詞)だとする。
 このような経過をたどって、今のテニヲハ、名詞、動詞と形容詞といったような品詞ができた、というのが朖の説である。

『言語四種論』による品詞分化の系統概略図

 つまり富士谷流の品詞区分が構文論的であるのに対して、朖のそれは進化論的なのである。生物の分類になぞらえて言えば、富士谷説はこれは陸棲、これは海棲といった考え方をしているのに比べて、朖は進化系統樹のようなものを想定している。両者は観点が違うし、目的も異なっているように思われる。成章のものは中世以来の文芸作法としての文法論の末にあり、朖は国学という新潮流の只中に身を置いていた。
 およそ物事を分類するには、いくとおりかの方法がありうるものである。たとえばラジオならば、電波を受信するものという点を取れば無線機器だし、音を出すものという所を重視すれば音響機器ということになる。これはどちらかだけが正しいのではない。
 結局どう区分するのが良いかは、何のために分類するのかという目的に対する適合性からしか評価することができない。誰かが立てた分類の方法を評価するには、まずその人の持った目的を察しなくてはならない。目的性を考慮しない批判には意味がない。

 鈴木朖は上に述べたように、日本語の構造を原初の段階まで遡り、そこからどう進化したかということによって考えようとした。これはヨーロッパで発達した歴史言語学が、印欧諸言語の具体的な面での比較からその歴史を遡ろうとしたのとは趣が違い、言語の裏にある抽象的な原理に迫ろうとするものでもあった。
 もちろん原初の言語など記録されるものではないので、朖の各論が事実に合っているかどうか直接的には確かめられない。しかし言語が今のように発達した姿で神から与えられたなどと創造論のようなことは言えないから、朖のように考えることは基本的に正しいとしなければならない。
 こうした考え方は、西洋の言語学に比べて、おそらく百年は先んじていたと言ってよさそうである。だからこそ、西洋の学問から圧倒的影響を感じざるをえなかった明治期の学者には、鈴木朖のことが正しく理解できなかったとしても不思議ではない。彼らのほうがある面では前時代の朖より遅れていたということになる。

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