境部臣摩理勢の破滅(二)
炊屋姫尊の葬礼がすんだ九月二十四日の夜、摩理勢は山背大兄命に従って、斑鳩宮に伺候しました。大兄の妃舂米王女、異母の弟長谷王子、摩理勢の弟の桜井臣和慈古らも侍っていました。
斑鳩宮のとなりには、法号を法隆寺といい、人々の口には斑鳩寺とも呼ばれる伽藍があります。この寺は大兄の父、故厩戸王子の発願により建てられたもので、仏の教えを行うところとして、この倭のうちで随一のものです。たんに建物としても、この国で一番立派で先進的なものなのです。
斑鳩の宮と寺は、山背大兄が父から受け継いだものの象徴なのでした。
摩理勢がそこで豊浦からの報せを夜っぴて待っていると、東の空がうす明るくなるころに、蝦夷の弟である雄当が摩理勢を訪ねて来ました。摩理勢が
「あれが何か言うたでしょうか」
と訊くと、雄当は
「兄は天王の御遺言を挙げて、いずれの王子が国に王たるべきかと問われました」
と答えました。
「誰がなんと答えましたか」
と摩理勢が続けて問うと、雄当の答えるよう、
「大伴連が田村王子をと言われ、采女臣、高向臣、中臣連、難波吉士はそのとおりだと応じました。阿倍臣も賛成のようでした」
「大兄命には」
「巨勢臣、佐伯連、紀臣は山背大兄をと言いました」
「蝦夷はどなたをと言いませんでしたろうか」
「兄はどなたをとも言われませんでした」
摩理勢ははっと考えました。ここで蝦夷が山背大兄をと言わなければ、合議はどうやら田村王子の優勢です。蘇我臣としては縁の深い大兄を推すべきであり、大兄も母方の叔父にあたる蝦夷を頼りにしているのです。しかし、蝦夷は自分の意見を言わないことで、氏上としての責任を回避しながら、実は田村王子を推しているように思えます。摩理勢はこのことを山背大兄に伝えました。
山背大兄は欲のない人で、争うことを好みません。長谷王子や舂米王女は、大兄が自ら辞退しかねないと思って、蝦夷の意志を問いただすようにと、熱心に勧めました。そこで大兄は筆をとって、
「伝に聞くには、叔父さまたちは田村王子を推戴しようとなさっているとか。わたくしが思いますのに、その理由がよくわかりません。願わくは叔父さまの意見を聞かせられたく思います」
と丁寧に信書をしたため、和慈古らに持たせて豊浦へ遣わしました。和慈古らは馬を急がせて豊浦へ向かいます。
しばらく経って昼下がり、和慈古らは重々しい顔ぶれを伴って戻ってきます。それは阿倍臣内麻呂、大伴連鯨、巨勢臣大麻呂、中臣連弥気子といった、蝦夷の豊浦の屋敷に招かれていた人たちでした。内麻呂は蝦夷から預ったという封書をさしだし、和慈古がそれを取り次いで、奥の間の大兄の手に渡しました。
大兄は封を切って中の便箋に目を落とすと、それを長谷王子にも示し、また摩理勢にも読ませました。摩理勢が見ると、それは確かに蝦夷の手跡で、墨はよく乾いていました。そこにはこんなことが書いてあります。
「わたくしがどうして独りよく御継嗣のことを定められましょう。ただ天王の御遺言を挙げて人々に告げただけのことなのです。人々が言うには、御遺言によれば田村王子こそ王位に当たりなさる、誰も異論は言えますまい、とのことでした。これは人々の言うところで、別にわたくしの思うことではありません。ただわたくしの意見があるといいましても、恐れおおくて人伝に申し上げるわけにはまいりません。また直にお会いくださる日にはみずから申し上げましょう」
長谷王子や舂米王女は、天王の御遺言なるものについて問いただすようにと、大兄に勧めます。大兄は和慈古に取り次がせて、表の間に控える阿倍臣らに、
「天王の御遺言というのはどういったものですか」
と問わせます。阿倍臣が答えるには、
「わたくしどもはその詳しきは存じませぬ。ただ大臣の言われるところのみによって言えば、天王の大御病したまう日、田村王子に詔して、
『国の政は軽々しく言うものではありませぬ。よって汝田村王子は慎しんでものを言いなさい。気を緩めてはなりませぬぞ』
と仰せになりました。次に山背大兄王子に詔して、
『汝は未熟ですから、あれこれと言ってはなりませぬ。必ず臣連どもの言うことに従いなさい』
と仰せになりました。これは近習の王女の方々や采女らのみな知ることで、また大兄命も聴いておられることだ、とのことです」
また和慈古が奥の間へこのことを伝えます。
長谷王子らは天王の御遺言について、しかと蝦夷に宛てて問いただすようにと、強く勧めました。大兄はようやく手ずから墨を擦ってうつむき、阿倍臣らには夕餉と床を与えて待たせるようにと命じて、白い紙に向かって頭をひねりはじめました。
夜、長谷王子は別に中臣連らを呼んで、
「われら父子はみな蘇我の血を享けています。このことは世の中がみな知っていることです。それで高い山のように頼りに思っているのです。王位の跡継ぎのことは軽々しく言われないように願います」
との蝦夷への伝言を託しました。
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