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貧困ぬけ〜貧困層を抜けた人の話〜vol,9「私はディスレクシアです。文字が記憶できない私にとって高校の授業は地獄そのものでした。学校は間違いに気づくべきです。」

私は小学校1年生の時に岡山県岡山市の中心地にある深底小学校に入学します。
そこで学のない、学歴コンプレックスのある両親は担任の先生に感化されます。
純粋に指導に乗りました。
それが正しい部分もあります。
でもそれが幸せに繋がるかどうかはわかりません。
今私が予備校経営者になっているのは、その担任の先生の指導の賜物と言えるでしょう。
でも、それによる私の人生は決して幸せとは言い難いものになりました。
我が家は恐ろしく徹底する家庭です。
正確に言えば、両親は自分に甘く、子供には徹底的に厳しく当たる人間でした。
自分たちはのんべんだらりん。
学校が間違いを起こすことはあると思います。


時々教育が曲がったことをしていると思うのは私だけでしょうか?
教育の被害者がいると考えてしまうのは私だけでしょうか?

教育という建前の元で行えば愚かなことをしても加害者とはなりません。
ですが、条理と不条理があるのは誰の眼にもはっきり見えています。
例えば、富裕層にとって条理で貧困層にとって不条理。
英語が必要な人にとって条理で英語が全く必要ない人にとって不条理。
美術の道に進む人にとって条理で美術に全く関係ない人にとって不条理。
このような白黒はっきりしていることでも教育の名の下で行えば建前的に教育です。
ですが、教育した後、成果は全くありません。
英語が全く必要の無い人は教育した後、英語の授業は全く無駄でしたよね?
それに掛けた税金は全て無駄です。

例えば「可愛がり」と称して眼にカレーを突っ込んだ東須磨小学校の教員。
この教員の行為を教育の外の力で誤りと指摘しなければ東須磨小学校では眼にカレーを突っ込む行為は教育だったのです。
行き過ぎた不条理は外から正すべきです。
正しい教育だと思って不条理を行なっている人は事の善悪の判断はできません。
教育の外から変えていかなければなりません。

私が不条理の中でもがき苦しんでいる時に感じていた苦しみ。
学校が加害者でなくとも、
教育者である私の考えは、ディスレクシアと向かい合いながら学校に通った私が感じていた苦しみは「異常」です。
文字が全く記憶できない状態にある時、
私の目の前に並んでいる教科は美術と体育以外全て記憶を必要とするものです。
それができなければ卒業できません。
あの時の、私の高校生活はまさしく地獄でした。

学校が加害者だとは言いません。
でも同じような地獄の苦しみに耐えている生徒がいると思うと何とかしなければと考えるのです。

ディスレクシアに関して言えば、
当時と違い今は通信制の高校もあります。
それにディスレクシアも認知され始めている。
ディスレクシアのような特性のある生徒は教育の仕方がとても大切です。
教育の仕方を間違えなければ優秀な人材に育ちます。
教育を誤れば本人に地獄の苦しみを与えます。

日本は今以上に特性に合わせた教育を実践するべきです。
少子化の少ない子供を効率よく優秀な人材に育てなければならない。
特性を踏まえない画一的な指導は大きな無駄があります。
無駄の全てを労働者にすればよい時代は終わりました。

OECDの中で子供の数が最下位の日本は今、若者の1人も無駄にできない。
ディスレクシアの人間は頭が悪いわけではありません。
脳の作りが違う、機能が違う、そういった特性を、その違いを認識するべきです。
脳の機能が違えば働き方は違います。
各々の働き方に合わせた教育を実践するべきです。
文系、理系の区別だけでなく。
細かな特性に合わせて教育を実践できるようにするべきです。

教育が曲がったことをしているのは、生徒の能力に合わせて適切な指導がなされていないからです。
生徒に足並みを揃えさせれば富裕層の求める労働者を量産することが可能です。
訳がわからなくとも言うことさえ聞いていればいい。
英語なんかわからなくていい。
指導者の言うことさえ聞いていればいい。
このような思惑は一切捨てるべきです。
本心から。

教育していくことで個々の生徒のポテンシャルをどれだけ多く引き出せるようになることか。
これは教育者ならわかるはず。
学校の授業は生徒に自由に選ばせるべきです。
そしてそれぞれの教科でその教科に興味を持っている生徒に合わせたレベルで指導が実践できるようにするべきです。
今のままではより高いレベルの授業を求めている生徒たちが犠牲になります。
遊びたい生徒は遊ばせればいい。

今のままでは全く必要のない教科まで受けなければならない。
強制的に受けさせている授業の大半が受けさせるだけ無駄です。
生徒もやる気はありません。授業を流しています。
そういった授業には生徒にとっても教員にとっても税金と時間の無駄です。
授業数はもっと減らしてしまって構わない。

学校で実践している美術、音楽、体育、技術の授業の内容のレベルは低い。
その低いレベルの内容を生徒が求めているかと言えば、多くの高校生は求めていない。
一方で美術、音楽、体育、技術の道を極めようとする高校生にとっては物足りない。
教員に高度な教育をできる人材がいないかと言えばそうではありません。
高度な教育を実践し得るスキルを持つ教員も指導要領に沿ってレベルの低い平坦な授業に甘んじています。

私はディスレクシアです。
語学を通じた記憶中心の授業内容の中で文字を一切記憶できない私にとってはそれは超えようのない不条理な壁でした。
今思えば当時の自分に言える答えは簡単です。
答えは高校を辞めてしまえばいい。

でも、当時は今と違い高校を中退するということは絶対的なタブーでした。
親も、高校の先生も必死に私を止めて、私は自分の生き辛さのことはさておき、高校を通い続けるようにしました。
当時はディスレクシアの概念はありません。
その為、自分もディスレクシアの認識はありませんでした。
現在は昔以上に生き辛さと学び辛さに対する理解が増しています。
国もあらゆる手を尽くそうとしているでしょう。
それでもまだ足りないのです。
それは自分の為というより、かつての私のように苦しんでいる人が必ずいると考えると声を出さない訳にはいかないのです。

教育に悪意があるとは考えません。
でも、どうしても状況と合わない所が出てきてしまう。
多くの方が教育が万能ではないと理解されていることと思います。
また、私が強いコンプレックスを持っているだけのような気もします。
でも、私は教育の有り方が変われば多くの人が救われると確信を持っています。
状況と合わない部分を細かく修正していけばもっと変われる。
教育がより良いものに変わる為に私が批判を受けたとしても声を上げようと決めたのです。

日本には不条理があります。
それは教育によって富裕層が社会の勝者となり続け、教育によって富裕層の安定が保証される確固とした構図が日本にあることです。

同時に、教育によって負けるべき貧困層が案の定敗者となります。
その数は国民の半数に登る。
国民の半数は不条理を噛み締めながら、奴隷のように社会の底辺で労働をし続ける。

全ての国民とは言いません。でも大多数の国民が学校を出た時点で富裕層か貧困層に選別され生涯を決定します。
そのように予定調和的に仕組まれた時計仕掛けが延々と続くサイクルが社会にはあります。

貧困層にいる人の中で、低所得者、中所得者の中で今の状況から脱したいと考えている方は多いと思います。

時計仕掛けを超えることはできます。
でもそれは奴隷であり続けながら富裕層と同じ量の勉強をし、学問を極めることを意味します。それがどれだけ過酷なことが私は知っています。
貧困層の家の出の私は社会に出て底辺で最も過酷な労働条件で働きながら猛勉強を続けて大学を出ました。
だから、私は社会を変えるためにそれを伝えなければならないと考えています。
教育に元々悪意があるとは考えてはいません。
だからそこに一縷の望みをかけて私は文章を起こそうと思っています。
教育の仕方がわからない人によって私のような被害者が生まれないように。
教育によって生かされた私のような人が増えるように。
話す必要があるかもしれない誰かの為に文章を書こうと思います。

学校には不思議なことがあります。
私が専門とする美術の世界では学校で初歩的な技術が1つも身につきません。
英語では私の身の周りの誰一人として読み書き会話ができるようになりません。
私のようなディスレクシアの人間がなぜ語学の授業を取らなければならなかったか?
なぜ特性を考えずに全ての教科を受けなければならないのか?

我が家では、様々な禁止事項がありました。
これは元々学校から指導があって指導された内容に沿って行われたことです。
テレビを見てはダメ。
漫画を読んではダメ。
アニメを見てはダメ。
暴力を振るってはダメ。
小遣いはない。
友達を作ってはダメ。
遊びに行ってはダメ。
親に口答えしてはダメ。
先生の言うことは絶対。
親の言うことは絶対。
先輩は絶対。
目上の人は絶対。
これらを見て曲がっていると感じてしまうのは私だけでしょうか?
言葉が足りないと言うか、ストレートすぎると言うか。
いずれも時と場合によっては正しいとも悪いとも取れると思います。
つまり、考えるべきことなのだと思います。

私が小学生の頃、ドリフが教育に悪影響を及ぼす。
と言うものがありました。
教育者としての私の意見ですが、ドリフが教育に悪いと言っていた先生は皆んな消えるな〜と思っています。
抑圧された生活の中で死んだ魚の眼になり、全ての興味関心を削がれ、生きる力を失った人間に、お笑いは活力を与えてくれます。
活力は生きる力です。
生徒にお笑いほどの活力を与えられる人間が教員の中に一人でもいますか?
答えは、いません。
教員が過信し、思い上がりで困窮し不幸のどん底にいる人間をいじってはならない。
と思います。

私がディスレクシアに陥った原因は家庭環境にあります。
私の両親は私から、私の興味関心を持つ全ての物事を奪いました。
勉強以外の全ての物事を私から奪いました。
それによって私は思考停止し、感情が無くなりました。
私の両親にそのような指導をしたのは小学校1年生の時の担任の先生です。
当時はそのような思想が教員の中にありました。
今は違うとおっしゃる先生は多いかと思いますが、今でもおかしな点は沢山あるのです。

続く

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