見出し画像

貧困ぬけ〜貧困層を抜けた話〜vol,10「保育園の初日に男なのにスカートをはかされて入園して一日中ピアノの下で隠れていた話」

小学校に入る1年程前だと思います。
私はなぬかいちだか、なのかいちだかいう町から岡山市内に引っ越しました。
岡山市内に引っ越してから私は人生初の集団生活に身を投じることとなりました。

なぬかいちで私は幼稚園や保育園に通ったことはありません。当時、多分そのような家計の余裕はなかったはずです。両親は朝早くから夜遅くまで仕事に出て、その間私は大家さんにあずけられていました。
大家さんの家では特に話すこともなく、何をするでもなく過ごしていたと思います。この時期、母親が子供から離れずに育てることが大切です。否応ない事情で大家さんに預けたのだと思います。この期間は私の様々な能力の発育を遅らせたはずです。

悲しいかな発達障害のある両親には常識的な問題に気づかない点が数多くあります。まず、空気が読めない。常識や空気に沿う大切さに疎い為、準備が足りないか、準備しても自分の超越した幻想的な理想をそのまま実行してしまう所があります。でも、まあ、今思えば当然と言えば当然です。「郷にいれば郷に従え」と言う感覚がないのですから。彼らは実際生活が破綻しました。おそらく行く先々で問題を起こしたことと思います。

人馴れしていない状態で、岡山市に越してから、無防備な状態で蓮昌寺保育園に身を投じます。
保育園の初日は1日中ピアノの下に隠れて過ごすことになります。
なぜかよく初の日に事故に会う私です。嫌、理由は非常識だからです。

小学校の2年生の時は転校初日に血だらけになって帰ってきたそうです。
この時のことはよく覚えていませんが、父親に聞かされて覚えています。
広島弁を使う私が、北九州の小倉の最も悪いことで有名な足立小学校に転校してきて自分のことを「わし」と言うような広島弁を躊躇いもなく使う。そんな奴が皆の標的にされるのは時間の問題です。最初の挨拶をした一瞬でクラスの全員をキレさせてしまったようです。小倉弁に広島弁はキツすぎます。本来はそのようなことを全て親は子供にアドバイスしておくべきです。でも、コミュ障の両親にそのような器用な真似はできません。おかげ様で、全く記憶にないのですが、父親が言うには、初日に袋叩きに会って血だらけになって帰って来たそうです。


小倉は悪い所ですが、身内には危害を加えない所です。そのような仁義があります。私の記憶にあるのは打ち解けあった後の皆です。自分が血だらけになるような目にあったのはこの時だけ。当時は丁度誰が一番喧嘩が強いかヒエラルヒーを決めている時期でした。と言うかほぼ決まった状態で私が入って来ました。ほぼ決まってバランスと平和が保たれた瞬間に私が入って来たのです。なんとなく覚えているはその後、丁寧に序列を一番上から下まで教えてもらったことです。
悪のエリート(そんなに悪くないです。いや全く悪くないです。悪はあくまで小倉の外から見たイメージです。)が集まる小倉では序列が決まるのは早いです。小学校2年生ですでに確立されていました。小倉では早めに決めなければ問題が起きて厄介です。それに皆小学校に入る前に、幼稚園、その前は保育園、その前は家庭で悪のサラブレッドとして、生き様を親や兄弟や親戚や近所のお兄ちゃんに教わっています。学歴社会のエリートを育てるために高学歴の親御さんが子供にエリートとなるためのメソッドを子に指導するように、小倉では、小学校に入った時の腕力が一生を左右するので悪のエリートが小さな頃からメソッドを英才教育しているのです。
悪のヒエラルヒーは第一に腕力で決まります。その為、小倉では剣道か柔道を習う文化がありました。私も岡山にいた時、小学校に入ったと同時に剣道を習わされました。ただ、実際は喧嘩に剣道は役に立ちません、喧嘩に役立つのは圧倒的に柔道です。その為、小学校に入る前の予備校のようなものが柔道教室でした。小学校に入る前に概ねそこでヒエラルヒーは完成されています。それが壊れることはありません。
当時一番喧嘩の強いとされていたタッかんとその後転校してきたてっちゃんは高校に行っても、高校卒業後30歳になった13年後の教育実習に行った高校でも小学校2年生の序列のままタッかんとてっちゃんは有名でした。13年後の高校生にも知られているってすごくないですか?一応北九州は100万都市です。
小倉では小学校に入る前のヒエラルヒーが結婚相手や就職まで影響するのです。なるほど彼らは賢く、落ち着いていて、信頼が置けて、頼れる。人に迷惑をかけたり、実際は悪いことをしたりと言う話は聞いたことがありません。意外と小倉は小学校に入った時点のヒエラルヒーのお陰で平和が保たれていました。その為実際は言うほど悪いことは全くしていません。あ、修学旅行の時にありました。修学旅行から帰った日に全国ネットでニュースに出てました。これについては又の機会にお話します。
小倉は有名だったので外の町や高校では小学校や中学の名前だけで全く手出しされることはありませんでした。どこ中?みたいな感じです。
そのような大問題を家で全く教わることなく、予備知識の全くないまま小倉の小学校に行ってしまい、序列を決める儀式を、転校初日の通過儀礼として受けたのでした。これが足立小学校の初日の話です。

蓮昌寺保育園の初日では、私の母親は頭がおかしいので、と言うのは猟奇的な所があります。何を考えているのかはわかりません。おそらく純粋に可愛いということで何もわからない私にスカートを履かせて女の子の格好をさせて保育園に登校させました。因みに私は男です。女として育てられたと言うことはありませんが、女の子のような服はよく着せられていたと思います。スカートを履いて行けば当然ですが冷やかされます。徹底的に冷やかされて、それまで友達とそれ程遊んだことがなく免疫のない私は一日中ピアノの下に隠れ続けました。母親は全く空気の読めない人間です。それと両親は相手の気持ちを考えることができません。ざっくり言えば自分の感じる不快感に対処するだけで精一杯。子供がどう考えたり、感じるかなど想像する余裕はありません。
母親に自分の意見を通すことがどれだけ困難を要するか、それを当時十分理解していたことを覚えています。わかった上で保育園から帰ってから母親に2度とスカートを履かせないようにしつこく懇願したのを覚えています。今考えても母親に対してコイツ馬鹿だなと思います。結局保育園では先生たちからは煙たがられ、友達は1人もできませんでした。先生に嫌われていたのは母親が言うことを聞かないからだと思います。正月にお餅を焼いた時に何もしていないのに私だけ和尚さんにもらえなかったのを覚えています。食べ物の恨みはすごいですね、今でもはっきり覚えています。

母は人の言うことは一切聞かない人でしたが、彼女はおそらくある程度肝が座った人間だと思います。母の兄、私にとっての叔父は反社会勢力ではないですが小倉で有名な喧嘩が強いらしい世界のエリートです。その妹なので学生の時は随分楽が出来たようです。
そんな母なので少し感覚が常識からズレた所がありました。
ひょっとしたら私もその血を引いているかもしれません。
一度決めたら絶対に後ろにはひかない所はあります。
因みにこの話、修学支援新制度の付帯事項と低所得の問題を変える為に書いています。

続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?