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あるけない痛み

あいつはときどきやってくる

坐骨神経痛になった。
腰部脊柱管狭窄症からくるもののようで、自分の場合は左右どちらかの足
(大抵は右)の側面が痛み、ひどい時には歩くのも困難な状態になる。

この痛みは今に始まった事ではなく、かれこれ10年以上前から季節の変わり目やらで思い出したようにやってくる。
犬を飼うようになって朝晩1時間ずつ歩くようになってからは、その頻度はかなり減ったものの、油断をしているとこのザマだ。

数年前、あまりの痛みに歩くこともままならず、かといって休むわけにはいかない理由があって、出社する時に杖をついて歩いたこともあったが、それに比べれば現状はまだマシかもしれない。

とはいえ痛いものは痛いのだ

こうなるとロキソニンの湿布や錠剤で痛みをなんとかやり過ごすほかはない。日頃、坐骨神経痛に効くとされるストレッチもやっているのだが、痛くなる時はなるものだ。
とはいえ、あまり安静にしすぎるのも良くないらしく、牛歩かついつもよりショートカットな道のりではあるが愛犬の散歩も必要な運動だ。

家族はこの症状がで始めた時は「痛風じゃないの?」と、まるで人がだらしない酒の飲み方をしているかのような言葉を投げてきた(とはいえ、身に覚えがありすぎるので反論もできない)が、病院で診てもらって原因がわかったらわかったで「運動不足だ」「そういえば最近太った?」とデリケートなアラフィフの心を無視したような発言をしてくれたものだ。

歩けることのありがたみ

いままで当たり前のようにやってきたとが出来なくなるのは、不便極まりない。
特に「歩く」という行為は、生活する上で欠かすことのできない事であり、歩けなくなる、ということは生きていく上でとんでもない支障となる。

立って靴下履けないのはもちろんのこと、靴を履くのにも痛みが伴うし、普段なら何ということのない距離にあるコンビニやスーパーに行くのさえ苦行になる。
愛犬との散歩だって、それなりの距離をそれなりの時間で行ってあげたいが、足の痛みはそれを許してくれない。
家の中だって、トイレに行ったりフロに入るのも難儀な時だってある。

そして歩けなくなったらその先には「寝たきり」という、できれば全力で避けたい未来が待っている。

それは、今の自分にとってはこの上なく恐ろしい。

この世に生をうけてすでに半世紀が過ぎ、視力にせよ体力にせよ「老い」を痛感することが増えてくる年齢になってしまって久しいが、出来る事ならいつまでも自分自身の足で大地を踏み締め、外を歩き回りたいものだ。

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