もしツル Scene 11


画像1

 南青山のマンションに戻ったのは夜の7時過ぎだった。やよいはいなかった。日中はいつもどこかに飛んで行っているようだが、だいたい7時頃にはマンションにいるので、もうすぐ帰って来るだろう。僕は徒労に終わった伊勢行きの疲れと、胸に収まりきらない不満を紛らわせるために、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲み干した。さらにもう一本飲み始めたとき、ベランダからバサバサという音が聞こえ、やよいが帰って来た。

やよい小

 彼女がベランダからリビングに入って来た時、ペタペタという聞きなれない音がした。「何だ、この音は?」と思って、彼女の足許を見ると、何かが左足に引っかかっていた。近寄ってよく見てみると、それは僕が出かける前にキッチンの壁際にセットしたゴキブリ取りの箱だった。細長い左足の爪先が、その中に入って取れなくなってしまったのだ。「これはまずい」と思い、とにかく、足先にぶら下がった箱の部分を取り除いてやろうと思い、ハサミを出してきて、爪を傷つけないように慎重に切り始めた。
『迂闊だったな。僕がゴキブリ取りを仕掛けたために……』
と、そこまで口に出した時、僕は思わず息が詰まった。《鶴女房にわなを仕掛けたのは誰だと思う?》と言った八橋先生の言葉がよみがえって来た。頭の中を血が駆け巡り、そして僕は確信した。

 「それは、鶴女房の夫だ! あの男が、わなを仕掛けた張本人に違いない」

画像3

 あまりの驚きに、僕の心臓はフル回転し、動悸が激しかった。それは、まったく思いがけない発見だった。僕は、やよいの足元を見つめながら、わなを仕掛けたのが夫だったとするならば、この男の罪は、「見ない」という約束を破ったことに止まらなくなるだろう。 
 さらに言うなら、鶴女房が、助けてくれたとはいえ、もともとわなを仕掛けた男に恩返しをした、という物語そのものに矛盾があるように思えてきた。この恩返しには、きっと何か別の意味が隠されているに違いない。〈鶴女房〉の物語には、僕たちが気づいていなかったもうひとつの筋書きがあったのだ……。
 突然、目の前の霧が晴れたように思った。でも、その先には何もなかった。真っ白いノートが一冊あるだけだ。それは、僕たちが見過ごしてきたもうひとつの鶴女房を書き記すためのノートだった。

 足許にしゃがみ込んだ僕を、やよいが見下ろしていた。僕は顔を上げ、二人でしばらくお互いを見つめ合っていた。


参考文献
北山修・橋本雅之『日本人の〈原罪〉』(講談社現代新書, 2009年)


つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?