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過去から未来に繋がる夜

久々に15歳に戻って、また先生に教えてもらう。

私の人生はきっと先生との出会いから続いて、いま全部繋がってきたんだなぁと振り返った2023年8月の夜でした。

地域No. 1の高校を受験しようと中学3年生になってやっと夏から通い始めた塾で、飛び抜けて変わった社会科の先生がいました。
バンダナを巻いて、髭を生やして、ピタピタのパンタロンジーンズを履いて、「お前ら、鶴居村に今土地を買っておいたらいいぞ」とその時も言ってました。

その人こそ、いまや世界的に有名な写真家でネイチャーガイドでもある、安藤誠氏です。
鶴居村でヒッコリーウィンドという場所があり、安藤先生がそこにいることはずっと知っていたけれど、なかなか行く機会を作れずにいました。
一度会いに行こうと電話をかけたけれど、時間が合わずに伺うことができず、数年経ってしまってたのです。

鶴居の森の中にあるヒッコリーウィンド

946BANYAから再構築される人生

今回やっと先生の元へ行けたのは、私が去年から活動し始めたネオ公民館「港まちベース 946BANYA」で運営として仲間になった清水さんからのお誘い。釧路での地域活動をする上で、常に壁打ち相手とお互いになりながら、妄想を語ったり、現実に向き合ったりする同志です。

そんな清水さんに、「琴絵さん、そろそろ安藤さんのところに行きませんか?」と言われて、やっとこの日が巡ってきたのが昨日2023年8月15日です。

人生で最初の分岐点となった高校受験

今の数学の点数だと無理だぞ」って言われてビビって志望校変更した時から、今日という日までが私の人生の中で決まっていたんだなと改めて思いました。

私は中学時代、割と成績が良かった子でした。田舎ですから、上から順に高校もなんとなくレベル分けされていて、学校の成績を見れば行く高校が予想できるような時代です。
しかし、みんなが本気出してきたらどんどんと学年順位も下がり始め、焦りを感じて塾に3年の夏から通い始めます。
成績は安定していき、5教科受験の4教科は60点満点で40点後半から50点後半を取れるようになっていました。でも数学がどうしても苦手で、いつも30点以下。
塾でも振り分けられたクラスだとレベルが高く、数学だけがついていけなくて焦り始めますが、志望校を出さなければいけない時期に差し掛かり、私は「頭がいい子はその学校に行く」みたいな基準でNo. 1校を書いて出しました。
しかし、その時安藤先生に言われた一言が、冒頭の言葉です。

別のクラスに潜り込み授業を受ける

とにかく数学の点数を上げたい私は自分の理解度がかなり低いことを自覚して、レベル分けされていたクラスの下の方の授業に潜り込みました。
ハイレベルの数学では、分かっていて当たり前が前提だったので、私がついていけず質問すると「とりあえずこの公式を覚えれば解ける」と言われてしまい、そういう部分をどうしても構造的に理解をしたい私にはモヤモヤして全く身につかない勉強法でした。

でも、潜り込んだクラスでは全然違いました。ちゃんと「なぜ、そうする必要があるのか」と言うところから丁寧に教えてくれていて、「あぁ!だからこうなるのか!」とどんどん理解が進んだのです。クラス分けは何のためにあるんだ、5教科平均ではなくて、才能で分けてくれ!なんて思ったのもこのクラスでの授業でした。
落ちこぼれのように下のクラスみたいにされてしまうその仕組みにも当時モヤモヤしてました。

多分、これはのちのちに私の力になっている「システムエンジニア」の構造理解や課題の捉え方につながっていると思います。

流されずに生きること

先生に言われた「このままだと受からないぞ」は、補習やら潜り込み授業やらでちゃんと改善され、志望校もギリギリラインかもしれないけれど受かりそうでした。
でも悩んだ結果、ギリギリに行った高校でついていけなくて落ちこぼれるよりも、少し余裕を持って入った高校で青春を謳歌したいなと考え、志望校変更をすることにしました。

あの時は周りからの「とにかくいい高校へ行ったほうがいい」という根拠なきプレッシャーもありました。私もその方がいいのかなぁとも、考えました。入ってしまえば環境に慣れて頑張ったかもしれないしそれは分かりません。

でも、過去を振り返る中で、今の私があるのは、常に私が自分でした選択があったから。

今となっては周りの声に流されずに選択したあの日から、私は自分で人生を選択することに躊躇してないんだと、そしてまた、その選択に何も言わずにいてくれた両親がいたからなのかと、ハッと気付きました。

先生の生き方が詰まったこの素敵なBARで、懐かしい話と今の話を行ったりき来たり。濃厚で温かい時間を過ごすことができました。


こだわりが詰まった手作りのBAR

時を超えて再開する愛情に生かされる

ずっと、私は自分の人生がその時の環境に流されて生きてきたと思っていました。

「どんな逆境も暗黒の時代もプラスに変えることができる今を持っている。それは琴絵が生きてきて今が幸せだからでしょ。いい人生を生きているよ。写真を見たら分かる。俺はプロだからね」

本質を見てくれる人だからこそ、目をかけてくれる恩師の言葉は"ストン"と心に落ちてきました。

自分を生きる人生

私は誰かのせいにしてガード下で不満を垂らすような人生ではなく、自分の人生を生きている。目の前に来た分岐点を決めたのは自分。だから誰のせいにもできない。その方が人のせいにするよりも何倍も気が楽だ。

しかしそれは、結構難しいことなんだと最近ようやく分かってきました。

先生の奥様しのぶさんの手作りスイーツを頂く

世の中にどうしてこれほどに他責に生きる人が多いのか、自分の機嫌を取れず自分をコントロールできずにいるのか。ずっと愚痴と文句を言う人たちのことがよく分からないでいたし、そう言う人には「そんなに文句があるなら、言えばいいじゃん!自分で決めたらいいじゃん!」と若い頃はイライラしたりもしました。
そういう思想になってしまう人が多いのは、学校教育や歴史的背景、そういう中で当たり前に「消費者」となるように組み込まれていたからなんだと、最近になって私の周りの有識者や尊敬する方の話から感じています。その思想の連鎖を止めることで、地域は変わるんじゃないか、何てことも考えたりします。

自分が影響を受けてきた全てのご縁に価値があり、その繋がりを大切にしてきたことで、この歳になって過去にお世話になった人たちからまた愛情を受けています。釧路という故郷に戻ってきたからこそ、恩を返していきたい。

ここで見守ってもらいながら、アドバイスをもらいながら、後押しをしてもらえる私は、幸せで充実した人生を生き始めるのだと感じた最高の夜。

40を超えて、生徒に戻った私たち

ちょっと年は違うけど、たまたま安藤先生の生徒だった中学生の私と清水さんが、946BANYAで出会ってまたここに戻って学びを得る。

これから、また楽しくなりそうです。

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